なまあたたかいジャパン

個人的に日本の役人・官僚は結構優秀だと思っているので、産経省あたりがクールジャパンとか言い出してるがそんなに変なことにはならないだろうと思っている。秋元とか目立つのを集めてるが、所詮そんなもの「バカ共にはちょうどいい目くらましだ」みたいに、裏で自分達でそれなりにやると思ってる。でもね。。
秋元がクリエイターにボランティアを要請したりとかはいいよ。彼の頭じゃ所詮その程度。彼は「内輪で盛り上がる」ことしか考えないし、考えられない。そんな「心意気」はネタとして面白いし「感動」してみんな盛り上がるだろって程度の発想。それがカネになる業界にいる人だから仕方ない。
ただやっぱね、この内輪というか徹底して外を見ない感じが、秋元に限らない感じですごく不安。
稲田とかね、安倍ちゃんとかが言うような「日本文化の海外展開」とかダメでしょ。
「自分」のことしか言ってない。

日本の閉塞感を打ち破って、日本はこれからどんどん発展していく、日本の伝統と文化を含めて、日本は素晴らしいのだと日本人自身が自信を持つ、そして、やはり日本のものが素晴らしいと思ってもらえるというのは、日本に対する尊敬の目が芽生えてくるということにもなりまして、

平成25年3月4日 クールジャパン推進会議 | 平成25年 | 総理の一日 | 総理大臣 | 首相官邸ホームページ

いやまあいい事言ってますよ。始まりの挨拶だからね。こんなもんでしょ。
でも会議内容見てると、このノリがずっと続いてしまうような気がするんだよね。
政府「クールジャパン推進会議」(第2回2013/04/03)実況ツイート #知財ネタ - Togetter
クールジャパンって要するに外とのビジネスだと思うんだけど、外の消費者に対する意識がほとんどないように見える。でなきゃ秋元のあの発想は無いよ。
稲田議長以下、あの場では「クリエイターがボランティアで作った」ってことは何がしかの意味のある事だってなってる。
でもそんなものコンテンツの付加価値でも何でもないんだよ。
そして商売をするってことは、消費者に価値を提供するってことなの。
これまでのところ、会議は「日本の価値」を再確認するだけの場になってる。自分の強みを見出そうとすることは悪いことじゃないが、ただ本質的にはそれは消費者に定義してもらうものだ。他人から見た価値こそが本当の自分の価値で、それは自分で決められるものじゃない。
なんつってもオレらクールジャパンなんだからみんな好きだろ、みたいな感じで自作のポエムを売り出したりしないか心配。
クールジャパンが韓国の文化輸出振興策に影響を受けてるって言ってた人がいたけど、これまでの会議の内容を見ると多分そうなんだろうなと思う。
韓国のマネなんだよ。自分のアタマで考えたことじゃない。自分の頭で真剣に考えたなら、日本の伝統文化の素晴らしさを売り込もうなんて発想になるわけがない。
どの国にだって独自の素晴らしい伝統文化が既にあるからだ。
韓国は外国への文化輸出に関して、徹底的に大衆文化に割り切ってる。イケメンとラブストーリーとダンスとポップミュージック。韓国の伝統や心を伝えようなんてカケラも考えてない。そんなもの欲しがる消費者は国外にはいないからだ。
日本の心とか伝統文化とか何を寝ボケたこと言ってるのかと。そんなもの外国の誰が喜ぶんだよ。
日本の優れた伝統文化なんて、ベトナム人にとってはそこら辺の屋台で売ってるフォー以下の価値しかないから。
それとも今も少数いる、「日本好き外国人」だけを相手にしてるの? 違うよね。それ以外に訴求したいんだよね。
市場ってのは、自分の売りたいものを売る場じゃないんだよ。商売ってのは、買い手の欲しいものを提供することなの。
自分にとってどんなに価値があろうが、それは所詮オマエだけの価値なんだよ。机の引出しにでもしまっとけ。
自分のこだわりとか心とかそんなもの関係ないの、オマエが売りたいモノは相手の買いたいモノじゃないの。そこんとこの混同はもう甘えだから。
自分の真の価値は相手にも当然伝わるんだ、ってもう甘えだからもう一回言うぞ甘え。
多分このまま内輪だけで、こんな我々の文化は素晴らしいし、ちゃんと伝えれば外国人にも理解されモノも売れるはずだみたいな事になってく気がする。
でもこれって「文化」を「技術」に置換すれば、日本家電メーカーのガラパゴス化の原因でもあるよね。
もう一度言うぞ、クリエイターがボランティアで作ったなんてことはコンテンツの付加価値でも何でもないんだよ。
それで喜ぶのは内輪の人間だけなの。
なのにそれが何か意味のあることであるかのように語られてる。
些細なことだが、彼らが根本的な勘違いをしてないことを祈るよ。

東京と南京とソウル

名古屋の河村市長が(彼自信が後に語ったことによると)誤解を招くような発言を、わざわざ南京に出向いてしてきたのがちょっと前。
まあ「誤解」そのものを焦点化することでしか、もうこの問題は「問題」としての体裁を保てない程度には歴史的に確定しているわけだが、それでも「南京虐殺は存在しなかった」の後に小さく「か?」と書く往時の東スポ的手法が、未だそれなりに売上に貢献すると信じているのだろう。
この問題/事件自体は発生当時から既に広く知られていて、普通に報道されてもいたのだが、今日のような「問題」として表れてくるのは戦後しばらく経ってからだ。
特に国際問題としては中国側がこれを大っぴらに問題視し始めた80年代から。そもそも歴史学的にも70年代以前は南京の虐殺は「問題」としては存在していなかったし、それ故にか否定論も存在していないと思う。
この種の問題には他に韓国の「従軍慰安婦問題」があり、これも実際にそれが起こった時期と、それが問題視され始める時期に大きなズレがある。
この種のズレは「捏造説」の論拠の一つだが、たとえば慰安婦問題に関していえば、この時間のズレは韓国における慰安婦(に限らず性犯罪被害者一般)に関する抑圧的な価値観に由来しているとされる。要するに差別や偏見が怖くて名乗り出られなかったというものだ。
個々の元慰安婦が、被害を訴え名乗り出ることができるようになるまでに(それこそ何十年という)長い時間がかかっている。だがそれは個々人が抱える内面的な葛藤や苦悩・恐怖を乗り越え、偏見や蔑視と闘う決意を持つまでに時間がかかったから、というだけではないだろうと思う。

事実の可視化

韓国におけるフェミニズムがどのような歴史的経緯を持つものか知らないが、「従軍慰安婦問題」はおそらくフェミニズム的な知見をもとに問題化されている。
デートDVが犯罪であり、セカンドレイプが犯罪であり、セクシャルハラスメントが犯罪であるように、「従軍慰安婦」制度自体が「性暴力」であるという明快な措定が、個々の元慰安婦の内面的な悲劇に過ぎなかった私的な経験を、公的な「犯罪被害」として語ることを可能にしている。
無論当時の制度/法に照らしてもそれが違法行為であったことは指摘されているが、しかし元慰安婦が晒されていた問題とはそういう事ではない。
明確な名称を与えられず、「結局憎しみとか恨みとかの問題だろ?」とされかねなかった事柄を、普遍的な「人権侵害の問題」として確立することに成功したのはフェミニズムの功績だろう。「性暴力」という概念を用いてだ。
多分フェミニズム以外のどんな論理でも、例えば既存の戦争犯罪の理路でも、元慰安婦は「不運で可哀想な犠牲者」を超える立場を獲得できなかっただろう。
逆にいえば、「慰安婦問題」が戦後長い時間がたってから突然浮上してきたのは、フェミニズムの登場以前にはそれを問題として構成する論理が存在しなかったからだ。個々の慰安婦の「決意」に時間がかかったという個人史的な問題ではない。
(だから当然フェミニズムに対して今も存在する一般的な反対論が、慰安婦問題に関してもほぼ全て揃っているだろう。だからそれは日本側に限らない。彼女らのスタンスは例えば韓国の元軍人などには評判が悪い*1

問題を見出す論理

歴史を現在の価値観で見る(裁く)べきではないというのはよく聞く意見だが、彼女たちの悲惨を「被害」として問題化することができるようになったのは、戦後における価値観があるだろう。
ただこの「価値観」は単に感情的、感覚的なものではなく、論理的に形作られている。逆に言えば「論理」がないところでは、どのような悲劇も不条理も、単に情緒であるにとどまるだろう。
3/10は東京大空襲のあった日で、それ関連のツイートもタモさんあたりを発端にいろいろなされているが、個人的に非常に違和感があるのは、それを悲劇としてしか語れていないことだ。

東京大空襲 - Togetter

個人的には東京大空襲も広島・長崎への核攻撃も、あるいはシベリア抑留も、端的に「戦争犯罪」であると考えるのだが、そのような語があまり出てこない。これはネット上に限らないし、今に始まったことでもない。
あれは戦時下においては仕方がなかった、それが戦争ってもので、そういったことも含めて自分たちが戦った戦争だったんだ、そんなトーンが支配的。悲惨を美しい記憶としてしか語れない。
敗者だから? 日本人はお人よしで本質的に善良だから? 戦後の日米のチカラ関係の反映?
だがそれらがすべて事実であったとしてもなお、犯罪として説得的に示すだけの材料を、それを見出す「論理」を持つことはできないか?
それがないから、単に情緒の問題としてしか、私的で個人的な悲劇としてしか語れない。あるいは天災であるかのようにしか。

慰安婦問題にしても、戦後になって何か新しい材料が出てきたわけではない(まあ被害者の証言はのちになって出てきたが)。既にある材料だけで、それが犯罪であったと示している。
「性暴力」という視角が無かったころには軽視・無視されていた事実を拾い集め、それが人権侵害であったことを立証しようとしている。
材料は既にある。事実は既に単にそこにある。それは現になされたからだ。
ただそれを構成することができず、また名付けることができなければ、美的/悲劇的に語られ忘れ去られる私的な感傷の断片に過ぎない。
「原爆はより多くの両軍将兵の命を救うために必要で正当だった」などという粗雑な「論理」にさえまともに対抗できていないのは、たぶん日本人が核被害を情緒的にしか把握できていないからだ。
私的な憤り(これには正当な根拠があるはずだ)を持つ人は多いと思うが、それを言説へと構成できず、ただ「ソ連への牽制」「人種的偏見」といった陰謀論まがいのレッテルを(彼らから見えない所で)貼り付け、溜飲を下げるしかないなんてことになる。
あるいは、人類全体の災厄(!)として語ることになる。
それは当時においてすら明らかに犯罪だったのだ、と現在において「発見」することは、別に現在を過去に遡及して適用することではない。DNA鑑定の精度が上がったことによる「発見」は、別に現在を過去に不当に適用することではないように。

*1:ウヨには一般に評判の悪いフェミニズムだが、現実的にはフェミはナショナリズムとかなり相性がいい。少なくとも政治的にはそうで、たとえば日韓のフェミは互いを自国のナショナリズムの権化のように見なしているが、そのような対立自体ナショナリズム的なものだ。

不景気アイドル

秋元がインドネシアAKB48姉妹グループみたいのを作ってると。
ジャカルタだからJKT48と。ほー。*1
その地域は言うまでもなく韓流真っ只中のはずなので、なかなか大変だろうが、AKBと同じ手法で育てるとテレビで言ってた。
秋元が韓流/K-POPをそんなに意識しているとも思えないが、こうなると周囲はどうしてもそのように見る。
秋元によれば、K-POPの魅力は「完成度の高いパフォーマンス」で、日本型アイドルはこの点でK-POPアイドルに対抗できない。
K-POPアイドルはパッと一目見てその魅力がわかる。美男美女揃いで歌がうまくダンスが洗練されているからだ。このわかりやすさが国境を越えて広がる際の武器になってる。
JKT48はその路線ではなく、素人同然の状態でデビューし、ファンの目の前で上達・成長していく過程を見せることで、共感と愛着を持ってもらおうとしている。AKBと同じ手で、応援しがいのあるアイドルっつーことだ。
だからJKTは地元の女の子を選んでいる。
秋元すごいなーと思ったのはそこで、例えば台湾でAKB48は大人気だが、(韓国の)少女時代はそれ以上に人気がある。
台湾のファンはAKB48の「成長過程」を共有などしておらず、単に日本の人気アイドルとして見ている。そのような見られ方をしてしまうと完成度の高い少女時代に対して分が悪い。
なら地域密着だ、っつーのはわかる考え方である。
それでも「日本型アイドル」の競争力に個人的な不安を感じないでもない。
秋元的な、あるいは日本的なアイドルのフォーマットが、現地のマインドと合致しないのではないかという気がするのだ。
端的に言ってしまうと、AKB48型アイドルは「不景気な社会のアイドル像」という気がする。
そして東南アジア地域は現在世界有数の成長セクターなのだ。
現在のAKB48が、若い男子の自信の無さを反映したものだということは異論が無いだろう。クラスで3番目くらいとか、歌も踊りもヘタとか、執拗なまでの無力さの強調と強い個性の忌避、完成・成熟を遅延させる仕組みは、要するにヘタレ男子が劣等感を持たなくて済むような設定である。
きっと日本男子は、ここ20年くらいで顕在化した世界的な競争を勝ち抜く自信をなくしていて、AKBはそんな男子の無力感と脆弱な自尊心をうまーく掬おうとしている。*2
「成長する過程」とか言ってるが、彼女たちはアニメキャラがいつまでも成長しないのと同じように「成長」なんてしないだろう。ただ年齢が増え、何をできるようになる訳でもなく「卒業」していく。
JKT48もそうなるだろうか?
でも東アジアの経済成長を続ける社会で、自分の未来を確信しているような男子が、そんなJKTにどの程度かまってくれるだろうか?
経済成長率が7%とかの国の男子が、最初っからクラスで3番目の女子を狙うか?
株価上昇率が利子率を上回るような国で、素人が成長していくプロセスをじっと待つほどヒマか?
資産を手元に置いといたらドンドン価値が劣化していく社会で、アイドルの成長を待つなんてことができるだろうか?
そこでは時間はカネより価値がある。こうしている間にも株価は上がり、給与も上がってるのだ。
物価上昇と同じスピードで男子の(たぶん女子も)自信や自尊心も増大している。
ただ待つだけでは損をする。
カネを払って時間を買うことが合理的な社会では、過程をスキップし、最初から完成されたものを欲するだろう。バブルん時の日本だってそうだったよね。*3
何のことはない、それら地域で今韓流がブームであるとすれば、それは単に韓国もまたそのような経済成長的マインドを共有しているからにすぎないのかもしれない。
少女時代や超新星のパフォーマンスは、東南アジアの若者とそんな「日々高まりゆく自信」を共有しているわけだ。
ただ「韓流」の原因が、単に歌とかダンスとかの技能に還元できないものであるとするなら、それは却って厄介かもしれない。
単にいいモノを作れば売れるというほど単純ではない、日本のモノ造りがハマった罠でもあるからだ。
だからひょっとしたらJKT48は、AKB48のようではなく、K-POPガールズグループのようにクールでセクシーでガーリーでビッチなイメージで出来上がってくる可能性もあるわけだな(そんなのが48人もいるグループって、、、)。
多分秋元はそういう余地を残しているだろう。それならやはり大したものだと思う。

*1:ググったら台湾にもいるのか。

*2:個人的には非常に自信をもった若い日本人も増えていると感じる。そしてそんな人はAKBにハマらないだろう。

*3:無論どんな時代にも自信の無い男子は一定数いるし、そんな彼らのためのアイドルも常に一定数存在するだろうが

日本語で歌うカラ〜

確かバブルのころだったと思うが、日本の美術館が結構な額を出してアンディ・ウォーホルリキテンスタインだったかもしれない)の作品の「オリジナル」を購入した、ということがあった。
「複製芸術」のオリジナルにそのような価値があるのか? そもそも複製芸術にとってオリジナルとは何か? という妙に考えさせられるニュースではあった。
オリジナルには固有の価値がある、というのは、どんなに複製技術が発達しても言われることだろう。例えば作品の「アウラ」など、複製技術が登場して始めて発見されている。複製技術の高度化によりそれが失われたのではなく、そのような価値が新たに生まれたのだ。

「Girls Talk

反韓流みたいのが盛り上がってるこの頃だが、最近になってKARAを良く聴いている。


いや実際、嫌韓は考えた方がいいよ、興味もったのアレがきっかけなんだから。「ミスター」が流行ってた頃はうちの子供も尻を振ってたが興味なかったし。
KARAは日本語でアルバムを出していて(「Girls Talk」)、これが聞いてみると意外にいいわけだ。
かつて80年代のアイドル全盛期の洗礼を受けたクチですが、それと比べるとヴォーカルが安定しているのが聞き手の情緒を不安定にさせずにいい。韓国語の方も聞いてるよ。youtube見まくり。女神かわえー。

日本語で歌うKARA

日本語で歌うKARAの魅力はその微妙な日本語の発音で、これはKARAに限らず、K-POP全体に我々が感じる魅力のかなりの部分を占めているのではないだろうかと思う。
別にそれが可愛いというのではない(可愛いんだけど)。
彼らに歌唱される日本語は日本語としての内実を欠いている。確かに日本語の音節で、日本人なら意味もとれるのだが、決定的に何かが欠けている。
彼女たちは一生懸命日本語を発音しているのだろうが、ネイティブが聞けばそれは単に日本語音韻に似たただの音声にすぎないと聞こえる。言葉から意味が脱落しているように聞こえるからだ。
言葉として訴えてくるものがない、いわば「心がこもってない」のだ。

ポップ

だが考えてみれば、ポップミュージックとは元々そういうものではなかったか?*1
桑田佳祐があんな歌い方をしたのも、パフュームが声にあんなエフェクトをかけるのも、小西康陽がなんの意味もない歌詞を用いるのも、吉田美和が日本語アクセントを意図的に無視したのも、日本語を発話することで表現してしまう意味とか心とかを逃れたいからのはずだ。ここに初音ミクを加えてもいいか。
それは多分、従来価値とされてきたもの、たとえば成熟したもの、正統的なもの、実質的なもの、日本的なもの、意味深いもの、といった(しばしば若者に不利な)「歴史的・文化的な本質」みたいな価値観に抵抗するためだ。
歴史も文化も伝統も、単に長く生きているという理由で大人・老人の専有物で、それにこそ価値があるのだとする価値観の下では、若者は常に未熟で価値が低い。
だが日本人として日本語を発話することは、日本的な価値に連なり、不利な序列を受け入れてしまうことだ。
表面的でも、歴史的な裏付けがなくても、無意味でキッチュなまがいものであっても、旧来の価値とはまた別の価値はあるはずだというのが「ポップ」の意図だったはずだ。
それは、単に遅く生まれてきたというだけで年長者より価値が低いとされる若者やそのカルチャーに、積極的に意味付けを与えようとするものだ。

J-POPと日本語で歌われるポップス

正直、KARAの日本語アルバムを聴いて、ここしばらくのJ-POPがやってきたことがいとも簡単に乗り越えられていると感じて軽く衝撃を受けた。
楽曲が優れているとかダンスや歌がスゴイというのではない。
日本のポップミュージックが乗り越えようとしているもの、日本語で歌う-日本人である限り逃れがたく縛られている歴史的、文化的な拘束が、KARAの日本語ポップスには及んでいない。
KARAの日本語ポップスは、彼女たちが韓国人である限りJ-POPのニセモノ・コピーでしかない。*2
だから(日本人の作る)オリジナルの方が価値がある、と言った途端に我々は「拘束」された老人だ。だがKARAの日本語ポップスを聞いてそう言わずにいるのは難しい。我々は日本人のJ-POPを聞いて育っているからだ。
歴史的・精神文化的本質こそ「本物」の価値である、と語りたい誘惑を断ち切ることは難しい。たとえ若くてもだ。
特に(KARAのような)複製物を見たときなど、ついオリジナルに「アウラ」を見出してしまう。*3
無論「アウラ」など虚構にすぎない。複製物を「複製物」と名指し、価値を低からしめるための(老人のよくやる)詭弁である。
だがそれは拘束力を持ち、一方KARAの楽曲はそこから「自由」であるように見える。それは日本のポップミュージシャンやリスナーが到達できないような自由だ。
それは単に彼女らが外国人だからというに過ぎないが、そこに自由を見るか無価値なニセモノを見たいかは、結局見る側の問題だ。

グローバリズムと現地化

これはKARAの日本デビューアルバムの楽曲(K-POPの日本語版)を聞いて思ったことだ。
だがそれ以降、日本での活動を本格化させてからのKARAは「現地化」を進めているように見える。メンバーの日本語もこなれてきて、新曲「Winter Magic」ではとうとう作詞・作曲まで日本人だ。
正直「Go Go Summer」以降はツマランのだ。日本に適応しようとしすぎている。現地の価値の序列に連なろうとしている。それはポップとは反対の態度ではないかとは思う。
少なくともKARAにそうではないものを求めていた人って多かったんじゃないかな?
もっとも"アイドル"としてその保守的な態度は正解なのかもしれず、彼女たちの日本におけるターゲットの持つだろう保守性と親和的なのかもしれないが。
(韓流が展開するような)グローバリズムって実はそういうことなのかもなーとも思った。

ガールズトーク

ガールズトーク

*1:いやこのポップはPopularのことでポップアートとは関係ないだろっつーのはまあww

*2:ただ、単に音楽的に見た場合、J-POPとK-POPは意外に違うものであると思う。

*3:J-POPだって何かのニセモノだが、J-POPと名付けられた時それが見失われた気がする。