映画「牛久」/見たくないから見ないものを見た

日本の「出入国在留管理局」(入管)の問題については、メディアにしばしば取り上げられている。
最近では、ウィシュマさんというスリランカ人女性の遺族が入管での非人道的扱いについての裁判を起こしている。
入管に収容中、彼女は深刻な体調不良を何度訴えても医師の診察を受けられず放置され、差別的な言葉を浴びせられながら「原因不明」で死んだ。

 

我々が良く耳にする入管の問題は、要するにこの不法滞在者/難民申請者の扱いについてのものだ。
このあたりの事情を個人的にそんなに知っている訳でもないので、漠然と「入国管理局には人権意識の低い差別的な連中がいて、行き場がなく立場の弱い入所者を面白半分に虐待してんだろう全く日本の面汚しが」ぐらいに思っていた。

 

要するに「そういう連中がいる」「そういう組織風土がある」みたいに考えてた。

 

そこでこの映画「牛久」ですよ。
「牛久」2021年 日本 イアン・トーマス・アッシュ監督

 

上記のような理解でこの人権問題を捕らえていたので、誰かがそれを隠蔽している、その悪事を暴かないとラチが開かない、みたいに考え、この映画の告発の手法に興味を持った訳だ。
この映画の多くの場面は、入管内部での入所者の姿や彼らの証言が、いわゆる「隠し撮り」の手法で撮られている。
場所は茨城県牛久市の入管。

 

もっともその手法も基本的には、入所者に面会を申し込み、面会の場面を隠し撮りするわけで、別に一般人が知り得ない入管の秘密が暴露されているわけではない。
基本的には入所者がただ所内の体験を話しているだけの映像である。

 

彼らの話の内容は同情すべきもので、しばしば入管の明らかな人権侵害や理不尽な対応も語られるが、それも含めて話の内容になにか秘密がある訳ではなく(実際こういう話はメディアにより既に外部に報道されている)、撮影は禁止されているのも、単に入所者の人権/肖像権への配慮など法的な都合だろう。
ただ入所者が自ら語り訴える姿には迫真性があり、彼らは(得体の知れない外国人なのではなく)普通にありふれた弱い立場の人間なのだと実感できる。その彼らがいかに理不尽な虐待を受けているかも。
(作品にはあからさまに暴力的で人権侵害を強く疑わせる「制圧」の映像もあるが、それは入管が記録として自ら撮影したものだ。おそらく訴訟などでの検証のために法的に義務付けられているのだろう。手続きを踏めば入手出来るのだと思われる。)

 

要するにびっくりするような秘密の暴露はない。
人権侵害の決定的な証拠となるものが映っている訳でもない。
もっとも全く予定が無いままいつ果てるとも知れず入所が続く事態は、本来それ自体が異常なスキャンダルではある。

 

ただ映画が進んでいくにしたがって、この人権侵害とその放置が、個別的な入管や職員の体質の問題などではないらしいことが明らかになっていく。

 

ここ数年、それこそウィシュマさんの問題等が報道されるようになり、入所者の人権状況が危機的な水準であることが明らかになって、外部の目が入るようになっている。

この映画がまさにそうだし、また作品内では国会議員がこの問題を取り上げる様子も描かれている。
特に議員が人権問題として国会で取り上げて以降明らかになるのが、これは法制度的な問題で、入管職員や刑務管の「人権意識」だの「差別意識」だののせいではないかもしれないということだ。

 

例えば難民に関していえば、日本政府は基本的な方針として難民を事実上受け入れない。一方で難民条約に加盟しているため政府は難民受け入れを広く広報しており、それを期待して難民申請者が多く入国している。
だが日本の難民受け入れはあくまで「制度はありますよ」という外聞を気にしたカタチだけのものなので、申請者のほとんどが拒絶される。

 

ただ難民は日本に国を追われて来ているので、拒絶されたところで帰ることができない。入管に収容されている人の多くがそれである。
(ウィシュマさんもその例で、帰国したら殺すとDV夫に脅迫されている。これはアメリカなどでは難民の要件を満たす事案)

 

つまり彼らは国家間の隙間に転げ落ち、日本における立場が存在しない存在な訳だ。難民としての入国を拒絶され、国内に「いないはずの人たち」「法的に存在しない人たち」な訳だ。

 

彼らは「いない」ので、あらゆる法的な取り扱いも出来ない。法的な保護がおよばず人権がない。いない人に人権は無いのだ。
(そのような司法判断も出ている。基本的人権の制限が合法化されている。もっとも難民条約に明白に反する判断だが)

法的にいないのだから現実にいようが彼らはいない。
法律ベースで動く日本の政府官僚は、彼らに何も出来ない。これは悪意というより不条理のようなものだ。

 

この存在の不確かさ、立場の不明瞭さが、結果的に入管の入所者取り扱いの不規則さとなっている。
入管にもどうすることも出来ない問題を抱えこまされていると言っていい。
(むろんそのような無法状態で、リアルに無法に振る舞う職員、刑務官の人権意識の低さは強く批判されるべきだ。)


映画はラスト近くになって急展開する。
入管という不条理空間から、突然現実社会とリンクし始める。
入所者たちに突如として仮放免が認められるようになるのだ。それもものすごい数。
作品中でも過半数が仮放免したと語られているが、今現在はさらに進み、入所者がほとんどいない状態らしい。

 

これは外部から働きかけがあったなどではなく、どうやらコロナが原因らしい。
入管が所内でのクラスタの発生を恐れて「密」な状態を解消にかかったようなのだが、公式にも非公式にも何の説明も無いのでわからない。

 

そんなことができるというのも驚きだが、なによりびっくりするのは彼ら仮放免者たちが、健康保険も無くワクチン接種券も無く、当然就労資格も移動の自由も無いままにコロナ流行中の市中に放り出されているということだ。
(この状態は今現在も継続している)

 

馬鹿なのか? 何から何まで間違った対応としか言いようが無いが、上述の通り入管にはどうしようもない事なのだろう。
とにかく映画を見て感じるのは、入管の対応が無茶苦茶だということだ。支離滅裂といってもいい。


先日ウクライナの戦争被害者たちが「避難民」として入国した。
難民認定率1%の我が国で、その数は驚きの400人越えである。この日本のどこにそんな法的な枠組みがあるのかと思ったら「特別措置」である。

 

なるほどこれは現在ウクライナで起こっている深刻な人道危機を受けて、日本の難民の受け入れに関してなんらかの態度変更を意味するのかもしれない、などということはどうやらない。

 

この特別措置が、例えば現在国内にいる(ウクライナ基準でいえば)明らかに「避難民」に合致する人たちに対しても適用されるかなどは議論されないし、また今後発生するかもしれない同じような事案についても特になんの言及もない。
難民の「特別在留許可」制度はあるが、それでもない。どうしても「難民」にはしないらしい。
単に今回受け入れただけである。過去とも未来ともなんの関係も無く、原則とも法とも無関係に、どんな理由で可能なのかも明らかでないままにだ。


そう、このあたりはもう無茶苦茶なのだ。原則が無い。なんでもアリであり、同時になんにもナシである。
その時の誰かの気分で物事が決まったり決まらなかったりする。その誰かが誰なのかさえ誰もしらない。

 

この映画の監督(イアン・トーマス・アッシュ 日本在住のアメリカ人)は、そこに日本人の人種差別意識の存在を感じているらしい。
例えば収容者が白人である場合、同じケースでもアジア人/有色人種とは対応が異なっているという例はいくらもある。
ウクライナ避難民に関してもほの見える、非白人に対する差別意識
この問題の「本質」にそれがあると。
それはそうかもしれないが、 だがなんというか、日本人として思うのだが、この一連の無責任さは、たぶん人種差別意識などという立派なものですらない。

 

ハンナ・アレントが、それに直面して言葉を失った、アイヒマンが繰り出す徹底して無責任な論理、その行為に理由も原因も動機も意味も無い、「本質」などどこにもない凡庸な悪である。
見たくないものは見ない、都合の悪いものは見えない、そういう態度が極まったものだ。

 

入管の職員、刑務感ひとりひとりの言動を見ると、明らかに人種差別的、外国人差別的、粗暴で非人道的な者がいるとしか思えず、またこの組織の体質そのものがそうであると考えざるを得ないのも確かだ。
だが問題は関係者個別の意識では無く、そういう振る舞いを可能にする枠組み、「日本の法が及ばない場所」が「見たくないもの」として存在し放置されているということだ。

 

民主主義が勝利した世界線

アメリカの911同時多発テロが起こってからしばらく後、知人のアメリカ人がボソっとこんなことを言った。

 

アメリカが世界中からこんなに嫌われているなんて知らなかった」

 

当時すでにインターネットもアルジャジーラも存在している。3大ネットワークとCNNだけが情報源じゃなくなっている。
彼女に限らず、同様の言葉は当時いろんな場所で耳目にしたように思う。

 

今ロシアのウクライナ侵攻の報道や情報に接していて感じるのは、自分は西側の情報環境にいるのだということだ。
インターネットは911当時からは飛躍的に情報量が増している。ゴミ屑みたいなのも含めてだがw
それでも何となく、我々が様々なレベルで接している情報がどうやら意図的に方向付けられたものだという感じがする。これまでより強くだ。

 

特にキエフ侵攻が迫ってくるにつれ、我々が目にする情報は情緒や感情に訴えかけてくるものが明らかに増えている。
ウクライナ市民の悲惨な姿、マヌケなロシア地上軍の醜態、爆撃されたショッピングセンター、公園に埋葬される市民の遺体袋。

 

勇敢なウクライナの前にロシア軍は息も絶え絶えで、おそらくまともな作戦行動が出来ない状態だ。
国内的にもプーチンの批判が公然化し、政権は行き詰まり末期症状に喘いでいる。
かつて超大国といわれた国の、避けがたい破滅がもうそこまで迫っている。

 

善と悪がわかりやすく色分けされたWWEのプロモーションのような報道の違和感に、我々の多くは普通に気がついているだろう。

 

つかはっきり言うと、今やオレはなにか安手の「物語」を見ているだけなのではないかと感じはじめている。
ウソをつかれていると言いたいのではない。
ただ現に伝わってくることと、そこからオレが受けとる(ように仕向けられている)ことに不整合がある。

 

どう考えてもウクライナに勝ち目はない。停戦合意に持っていくのも大変な状態だ。
ロシアの国内は、多少のギクシャクはあるだろうが(そんなものは普段からある)、おおむねプーチンの支持率は盤石である。
伝わってくる報道を単に(文字通りに)読めばそうとしか言えない。

 

だがそれとは別の水準で、事実報道とは別次元のナラティブで、もう一つの現実が語られている。
例えばロシア軍は壊滅寸前で、一部の辛気臭い連中を除いた世界中の国々は連帯しており、プーチンの軍事的・政治経済的敗北がもうそこに見えている、というような。
それはSNSがどうのという話ではない。

 

先に、中国とインドのロシア支援のニュースがあった。
両国共に対ロシア経済制裁には加わらず、ロシアの原油/ガスを購入する(ことでロシア経済を支える)とのことだ。

 

個人的にはロシア経済は長期的には大して弱らないだろうと思っている。ロシアを支えようとする国はたぶん多い。
つかアジア地域で制裁に参加するのは日韓台だけである。
「西側」が盛り上がってるほど、ロシア征伐に世界は盛り上がっていないのでは?
我々は、21世紀になって何度も繰り返されてきた、自信満々の西側リベラリズムがズッコケる姿をまた見ることになるかも知れないと感じている。

 

ロシアも中国も、実はそんなに嫌われていないのではないかと思える兆候はある。
米国といつもの面々がどれほど口を極めて全体主義を罵ろうが、

 

プーチンウクライナでやっていることは、かつてイラクコソヴォで米軍やNATOがやってきたと同じこと、イスラエルパレスチナでやっていると同じこと

 

という事実が消えてなくなるわけでもないし、忘れずにいる人たちも多分多い。

 

我々のナラティブは、報道事実のうち都合のいい部分だけを都合よくツギハギして、民主主義が世界史的にも道徳的にも勝利する世界線を語りつづけている。

 

だからこの戦争の帰趨によらず、民主主義の優位性が必ずや再認識されるだろう。
全体主義国家は増えているにもかかわらず(そして成長しているにもかかわらず)、全体主義の行き詰まりも再確認されるはずだ。

 

だが民主主義の勝利などという「もう一つの現実」に、「外」にいる人たちはいつまで付き合ってくれる?
ロシアや中国の振る舞いとは別に、そもそも彼らから見る我々も、特段民主的でも道徳的でも無いかもしれない。
(そしてそれは、実は我々自身も知っていることだ。)

深夜のファミレスで東大生に1年前の受験のダメ出しされた話

ウチには現在大学1年の兄(とJKの妹)がいる。
今1年ということは、要するに入学時すでにコロナ禍で、まともな大学生活を遅れていない年代である。

 

その兄に東大生の幼なじみがいる。保育園から一緒で、小学生まではかなり仲のよい友達だった。
卒業後、東大君は筑駒に進んだので、それ以来あまり接点はない。
ただ近所に住んでいる上に母親同士が仲がよいので、何かの機会に(家族ぐるみで)会う事はある。

 

ちょっと前だが、その東大君家族とウチら家族がファミレスで話す機会があった。
(オミクロン株大流行の直前くらい)
コロナということもあり、お互いの息子が大学に入学して以来、ちゃんと会うのは初めてである。

 


ウチの兄の大学は、東大君が「押さえ」に受験した私大である。
なので東大君は相応にその大学の事も知っている。
二人とも理系なのでおそらく院に進む事になるだろうが、彼が言うには兄の大学は「いい大学だが大学院はクソなので東大の院に来い」という事だった。

 

ほー、ウチら両親も兄もそんなこと考えたこともないわ。
いわゆる学歴ロンダリングだな、と言うと、

 

「本当にやりたい勉強ができることに意味があるんで、学歴とか下らないですよ。」

 

奥さん立派な息子さんですね。。。


互いに大学受験以来会ってなかったためか、あるいはコロナで実質的な「大学生活」がないためか、もう1年前になる受験周辺の話が盛り上がる。実際、大学受験はそれなりに家族を巻き込むので、双方の家人に共通の話題でもある。

 

しかしその辺りの東大君親子の話は、ウチらとしては非常に興味深いものだった。
ウチら両親は地方出身ということもあり、首都圏の受験情報に疎い。むろん調べはするが、感覚的にわかりくいと思うことはある。
これは兄の中学受験でも痛感したことだが、東大君親子の話を聞くと、やはり情報量が違うと再認識させられる。

 

特に東大君の情報源たる「鉄」の存在感は圧倒的で、受験界隈のウチらの知らなかったことをよく知ってる。
ウチの兄の受験対策なり志望校選びにもいろいろダメ出しされアドバイスもくれた(もう遅いが、、、、)
ウチの兄にはもうちょっと良い選択肢があったらしいっすよ。。。

 

 東大君はそういう「情報格差」の存在に自覚的で、というより筑駒なり鉄緑会なりは、要するにそういう点で優位性を与えてくれる場なのだ。

 

例えば東大の入試には「解かなくていい問題」があり、それを知っているか知らないかで差が出る。
それを知らない地方の高校生は、手を付ける必要のない問題に時間を取られるからだ。

 

「まったくバカバカしいほどに不公平」

 

「受益者」として東大君はそれを非難こそしなかったが、憤っているのが口調からわかる。
彼は小学生のころから男の子らしい素朴な正義感の持ち主で、自信家で尊大?な割に好感を持てるのはそのせいだろう。

 

そういえば東大君の育った環境だって、親がそれぞれ教師と研究職だ。
それに比べりゃウチなんか、兄に親ガチャ失敗と思われて仕方ないレベルである。

 

小学校時代の中のよかった友達などのウワサは、特に女親経由でいろいろ聞こえて来たりする。
もう一人、兄が保育園時代から仲良しだった子は、相応に知られた私大に受かったらしい。
スポーツで進学した子がどうなったかは聞かない。
中学でドロップアウトした子とか。
等々。。。

 

だが、偏見もあろうが、ウチも含め、子供がかなりキレイに「両親から推測できる将来」におさまっていると感じる。
もう、ウンザリするほどである。

 

それぞれの家庭で(ウチももちろん)それぞれに教育にチカラを入れ育ててきてると思うが、それは「階級上昇」を目論んでのことだ。
それが徒労だったとは思いたくないが、「超えられない壁」があるのではないかと疑わずにいられない結末である。。

 

むろん「結末」などと考えるのは親目線である。子育てが終わりつつあるのだ。
だが本人達にとっては「まだ始まっちゃいねえよ」ってなもんだろう。

 

 


「超えられない壁」など、その意味では単に親と子の間にある距離にすぎない。
要するに親と子は別人格であるというだけのことで、親が子にもたらせる影響力の限界が見えてきたということは、彼らが個人として自立しつつあるということなのよね。

 

「怒りの日」/フェミニズムと世界の終わり

年末年始にかけて時間があったので、イメージフォーラムカール・ドライヤーの作品をいくつか見た。
何が驚いたって、このコロナの令和にドライヤーの作品で結構な人が入っているということ。
こういうところは流石に東京だよねと、もう上京して何十年も経つのに思う。

 

「怒りの日」(1943/デンマーク

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この作品は、中世の北欧でのいわゆる魔女狩りの話だ。
相変わらず画面にチカラがあり、緊張感が半端ない。。。。のだが、以下は別に映画自体の感想や批評という訳ではない。
むしろフェミニズム的な読解である。この魔女狩り、どう見たってフェミサイドだからだ。

 

魔女狩り

魔女狩りといえば、中世の無知蒙昧な民衆やファナティックなキリスト教会が、集団ヒステリー的に虐殺を行った、みたいに思われてる。

 

ただ少なくともこの作品を見る限りでは、あきらかに「異端審問」なる制度の問題が大きい。
魔女を見出し排除しようとする教会のシステムが、人々のいさかいを自動的に魔女裁判へとフレームアップしてしまう構造が見て取れる。
そのうえ異端審問が、どうやったって被告を魔女だと証明するように構成されている。神学がどういう理路を通っても神の実在を証明してしまうように。
こりゃ罠である。

 

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この1943年のデンマーク映画は、別に中世的な価値観を描いている訳ではない。
ドライヤーの他の作品同様、ただ人間(関係)のみを描いている。いわば脱宗教化されている。

 

そして宗教色を除いて描かれる中世は、牧師系列の権威的存在はすべて男で、一方女は全てそうではない、という事実が嫌でも目につく。
「魔女」の多くが女だったわけだが、実際のところ魔女なる生贄は制度化されており、それが教会の権威化に一役買っている。

 

罪とその否認

年老いた牧師アブロサンは、その若い妻アンネ(再婚らしい)との間に感情的な交流が無い。
というより権威主義的な彼には全く人間的な感情が無い。

 

だがどうやら、過去の彼の男としての?欲望が、この若い後妻との再婚に関係しているらしいことがほのめかされる。
彼のアンネに対する頑なな無関心は、彼のこの不名誉だろう過去の否認という意味があるようだ。
一方若いアンネは、この年老いた夫の冷酷に傷つき孤立している。

 


映画は、このアブロサンの息子マーチンが遠い土地から帰ってくるところから始まる。
マーチンもまた神学校を出たばかりの宗教者だが、若い彼は父のような権威的な態度は無く、とても人間的・魅力的に振る舞う。
「魔女」の処刑に居合わせ、その不合理に苦悩する姿を見せたり、あろうことか父の後妻アンネと不倫関係になったりする(笑)

 

この若い2人の愛情関係は、アンネを悩ませはしないが、マーチンを苦悩させる。
アンネはグイグイ来るが(笑)、そのうちマーチンが逃げ腰になる。

 

アンネは自分の父の妻であるが、2人の夫婦関係に内実は皆無である。だからマーチンの苦悩の原因は父への罪悪感というより、それが不倫という道徳的な罪だということだ。

 

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うろ覚えなので不正確な引用になるが、二人の関係の終わりを示す場面、

 

アンネ「私を避けてるの?」
マーチン「いや、自分を避けてるんだ」

 

彼は自分の愛と道徳との間で板挟みになり、結局は「自分」を捨てる。
それはアンネを捨てることで、それにより「罪」を逃れようとする。

 

そしておそらく老父アブロサンも過去に同じ苦悩と決断を経験している。
アンネ/自分の欲望を捨て去ることで、道徳を、牧師なる権威を身に纏っている。
アブロサンのアンネへの冷淡は、単に年齢の差や女性蔑視から来るものではない。


魔女というファンタジー

二人の男たちにとって、アンネは自らの「罪の証拠」だといっていい。
二人はアンネを拒み、そうすることで罪を逃れようとする。
そして男達の裏切りにアンネが不満を言い立てる時、アンネは男達にとって魔女になる。

 

自分に都合の悪くなった女がまるで魔女のように見える、という男にありがちな身勝手なファンタジー(笑)が、ここではお伽話ではすまない。

 

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後にアンネは「魔女」と告発される。(告発するのは別の「魔女」だ)
そしてほかならぬマーチン自身もまたアンネに「魔女」を見出すのだ。
なぜなら、

 

 自分の罪=アンネへの不倫の愛は、アンネの魔術のせいだった

 

からだ。
この、他の場所ではとても通用しないような屁理屈が、魔女裁判に居並ぶ審問官の男達には堂々と通用する。

 

おそらく彼らもまた「女」を相手に同じような「欲望」と「罪」を経験しているからだ。
彼らは自らの罪を否認し続けるために魔女を断罪し続け、その度ごとに道徳と権威の仮面を新たに被りなおす。

 

マーチンの証言によりアンネは「魔女」とされる。
マーチンの「罪」は贖われ、道徳と権威の仮面を被るだろう。


歴史の終わり/歴史の始まり

多くの古い宗教において女は低劣な(場合によっては卑しい)地位しか与えられていない。
魔女裁判もこの宗教的な性差別が原因と見えるし、今も例えばイスラム教にそれを見るだろう。

 

だが、ドライヤーによるこの作品において、性差別は宗教とは無関係なのではないかと考えるのに十分である。
男性集団による、共謀的な女性の排除が権威/権力の起源において起こっている。

 

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フランシス・フクヤマは、民主主義体制の全体主義への勝利を以て、権力/イデオロギーの抗争としての「歴史」は終わったといってる。(撤回したようだが)

 

だが現実にはその同じ時期、人種差別や性差別の反対闘争が、そこにある民主主義体制に対し戦いを開始している。
その「歴史」は今も続いている。

 

国家的な統治形態と差別ではレイヤーが違う、とは言えない。
人種差別や性差別は、起源が古すぎてそう見えないだけで、あるイデオロギー化した統治権力の形式だからだ。
そもそも黒人も女性も選挙制度から排除されていた。

 

性差別は(フェミニストが家父長制などという語を用いて力説するように)権力/制度的な産物だといっていい。それは文化的因習などに解消できない、それに先行し、また今も生起している権力関係だ。

 

多くの旧植民地は、武力闘争によってしか独立を勝ち得ていない。
同様に人種差別、性差別も、そこからの解放を何らかの意味での暴力に依るしかないかもしれない。
今や近代社会に住む白人/男性たちは、自らの民度と寛容を信じているし、そこにある差別の存在を認め平和的な解消への努力を約束するかもしれない。
だが実際に解消への努力を始める前に、被差別者たちの攻撃的な態度を道徳的に非難するだろう。
そして道徳は被差別者にとって常に差別者が語る罠だった。

 

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