マナーなんて語れないし、そうすべきでもない

以下のエントリはタイトルと内容が微妙に違う。"同調圧力としてのマナー"なんて話じゃないが、面白いので。
電車社会と携帯電話と同調圧力としてのマナー:狐の王国
ま、"強要されるマナー"というのはそれ自体が形容矛盾なんで、不愉快なのは当然。
ただ、純粋に携帯での話し声が不愉快な人と、それがマナー違反であり、そのような違反行為事態が不愉快だという人がいる*1
後者のタイプを神経質だの杓子定規だの感じるのだろうが、普通に考えれば責められるいわれは無い。むしろマナー違反を犯しておいて、手前勝手な理屈でそれを正当化し相手を批判するなら、それはどう言ってみたところで普通に逆切れである。
いわゆるマナーなりルールなりが、それを守ろうとしている人ではなく、都合のいいオレ理論で(うるさくなければいいとか)それを無視する人に味方するなら、これは怒っていい事態だ。
だが実際にはルールもマナーも、額面通りに(字義通りに)読んだ場合身もふたも無いもので、大抵それを遵守する人を守ってはくれない。弱者は弱者ゆえに法を守るが、法は法廷においてほぼ常に強者の味方をする。
だから「読ませない」ために不文律という考え方があるわけで、マナーもその一種だろうが、それでも強引に読もうとする奴はいるのだ。マナーの構造だの論理だのを考える奴はそれだと言っていい。なぜそれがルールではなくマナーなのかを考えないのだろう。だがマナーを読もうと思った時、ルール/法のように読むしかなく、マナーはその時死ぬ。
結局、意思決定を強制力を伴う"ルール"に委ねたほうがラクなのだ。
うるさくなければ話していい:タケルンバ卿日記
一部の人が感じるGoogle Street View問題も同じで、自分たちの不快感を強制力を伴って"言えない"、マナー違反者にマナーを強要できないという問題だ。彼らが感じる不快感は、別に見知らぬ土地でGoogle Carが道交法違反を犯したということとは関係ないが、結局Googleの(直接は自分に関係ない)違法行為を明示された法の文言から拾うような回りくどい方法に拘束力を期待するしかない。
グーグルは交通法規も平気で無視する:高木浩光@自宅の日記
マナー違反を行う人を批判するのはとても難しい。明示(明文法化)されてないってことは大したことじゃないからだろ、という発想が(批判者にさえ)根強いからだ。
ここには「明文法」に対する強い信頼/権威付けがある。法には強制力があるからだ(だからこそ弱者ほどこれを重視する)。
マナーを軽視する人は、だから権威に弱いといってもいい。
実際、この種のやり取りになるとすぐに法を参照しようとする人がいる。これは、人を説得する際にまず公権力を動員しようとするという発想で、大げさに言えば社会/人間関係に対する無力感や不信感、恐怖のようなものが根底にあるような気がする。人/社会との関係を、自分ではなく(チカラを持った)法に代行させようとしている。ポケモントレーナーみたいなもの?*2
もっとも、よりありそうなのは、この社会はもやは共通したマナー/暗黙の了解など持てない状況なのだ、という実感だろう。もう明示され共有された文言に拠るしかない、という。

*1:マナーに反した行為それ自体が不愉快である、という指摘は意外に無い。以下があるくらい。
音量がうるさいのではなく、ルールを破って携帯電話で話してることがうるさい。:木になることの日記

*2:意地の悪い言い方をすれば、"スカートの陰に隠れている"。杓子定規とかお役所仕事に我々がイライラさせられるのは、結局そのせいだ。