法について(マナーなんて語れないし、そうすべきでもない)

昨日のエントリの以下のトラバがついてた。勢いで書いてしまったものだったので、こう読まれる部分はあったかもしれない。。。
マナー大いに語るべし:novtan別館

法には強制力があって弱者はそれを重視するけど法は強者の味方だ、ってのはちょっとわからんなあ。弱者が強者の味方であるところの法に従うのは法が弱者を虐待しているのだ?って話?法治国家から去った方が良いのでは?
トラバありがとうございます! とコメント欄に書くのが普通なのかもしれませんが、長くなりそうだったのでエントリにします。特定のブロガーに対する返答の意味合いがあるので、敬語ですw
といっても反論とかではなく、釈明のようなものです。
先のエントリで法を「読む」といっているのは、字面を額面通りに読む、ということで、マナーを法のように読むというのは、マナーを言語化し、論理的に体系化するというようなことです。
字面を額面通りに読むというのは、例えば外国の例の孫引きになりますが、
暗いニュースリンク

保険適用の対象は“リハビリ”療法であり、言い換えると、患者の失われた肉体的技術を回復させることであるという。パーカーの場合は歩いたことがないので、その理学療法男児に新しい技術を訓練することになり、それゆえ適用外というわけだ。

というような態度です(これは私企業の定めた契約ですが、明文化されたルールという意味で法という語を使います)。この手の話題でよく言及される、シェークスピアヴェニスの商人」の"慈悲を欠いた法"のような意味です。*1
法には大抵、立法の精神なるものがあるはずで、法治国家を民主的(これもあいまいな言葉ですが)ならしめるかどうかは多分これによっています。
しかしその"精神"は法体系の外部にあり、法はこの精神を基本的に無視できます。法にとって重要なのは法体系の整合性だからです。法解釈に法の精神を反映させるかどうかは、結局判事の個人的な判断によっています。
弱者は別に法に虐待されてはいませんが、保護されてもいません。法は単に法体系としてそこに在るだけです。そして法の精神が(大抵の場合弱者の保護でしょう)、法の実際の運用/適用局面において法解釈に盛り込まれるかは判事次第です。
判事が上の保険のような判断をしたとして、責められるいわれはありません。明らかに法の精神に反していますが、法そのものには適っているわけです。*2
裁判官が法に通じているだけでは不十分だと多くの人が感じるのは、法を単に読むことで解決しない問題があるという実感があるためです。これは法の不備などということでは無い。
実際、法体系の外部にあり、語り得ないもの/読み得ないものが、実は法への信頼の根拠です。弱者は法そのものではなく、この語り得ないものに守られます。
しかし語り得ないものを、まさに語り得ないと言う理由で存在しないとみなす態度はありうるわけです。
人間は誰も単なるViewではないだろ(自エントリで申し訳ない)

この種の「黙契」を、明示されていないことを理由に無いものとして扱う態度は、人間/社会関係を法的な観点からのみ解釈しようとするものだ。自分を取り巻く社会関係がすべて明文法の文言に収斂してしまうはず無いことなど誰でも知っているが、あえてそのような態度を前面に押し出すことでGoogle Street Viewは可能になっている。

その時、法は別に弱者の味方では無いでしょう。弱者を守ろうとするのは大抵の場合法ではなく、法の精神という、法体系の外にある不可視な何かだからです。
これを読めるような形で明示することは、法の「形骸化」と言っていいと思います。法の意味、精神を剥奪するからです。
マナーの話はどこへ行った? この明示を伴わない"精神"こそがそうでしょう、ということです。

外聞が気にならなくなったとき、マナーは意味を持たなくなり、法律の出番になるわけだ。

完全に同感です。そして私の興味は"外聞が気にならない"とは?ということでした。

*1:なお個人的には、それでも法の文言の杓子定規な適用には良い面の方が多いと思います

*2:ただ、法の文言に完全に適っていても、それは被害者/加害者にあまりに過酷な判決ではないか? と感じる事例が多いと思う人が増えていることが、最近の陪審員制度導入の契機とされています。