貧困のイメージの貧困

自分の、あまり身近にない事柄についての思い込みについて、そのイメージの源泉は何なのかというのが最近気になっている。
たまたま産経にこんな記事が出ていたので、自分でもまとめ切れていないがちょっと書く。
【視線】慰安婦、つかこうへい氏の見方「歴史は優しい穏やかな目で」 阿比留瑠比
例えば「貧困」という概念。最近の話題では「性奴隷」「強制連行」でもいい。
これらの語の正しい定義は google さんなら0.20秒くらいで答えてくれるが、実際のところそれも定義にすぎない。
一方、それに先立ち、自分の中にはそれらの言葉から具体的にイメージする事柄というのはある。一定のステレオタイプ化は避けられていないだろうが、こんなもんかな、みたいな予断・先入見というのは誰もあるだろう。
一般的に自分が知っていると思っているもの、実際には身の回りにあるわけでもないのに、こういうものだというようなイメージ、それはどこから来ている? と考えると、大抵はどうもいわゆる大衆文化におけるビジュアルイメージだ。要するに映画やテレビドラマ、マンガとかアニメとかで、これは今や多くの日本人にとって同じなのではないかと思う。
*1
自分的には、現代の日本における「貧困」といった時に何をイメージするかというと、やはり昔の日本が貧しかった頃に作られた、大衆文化における図像が元になる。というかそれしかない。
たとえば巨人の星の飛雄馬の子供の頃とか、10代のころの吉永小百合とか、要するにマンガや映画で見た一連の/断片的な場面が思い浮かぶ。
で「貧困」っつたらそれ以下かな、みたいな。
でも考えてみると、オレは(幸い)貧困など経験したことがないし、このイメージもあるフィクションの断片にすぎないんだよね。
で、このような「貧困」の把握で、現在の現にある貧困についてコメントするのはやばいなとも思う。
自分も実は現代の「貧困家庭」に携帯とかパソコンがあるとか、パチンコ行ったとか、家族で焼き肉食ったとか、そういうことには正直違和感がある。
そしてそれを以て、たとえば甘えだウソだとか批判する連中がいるのもわかる。
連中の言い分もわかるというのではない。連中も自分と同じような「貧困」理解しかないのだな、というのがわかるのだ。
たとえば焼き肉なんて贅沢じゃんカネあんじゃんと思うのは、別にオレと比べてではなく、現実にあるだろう「貧困家庭」の生活と比べてでもなく、単にオレの中の貧困イメージと比べて贅沢なのだ。
だがこれはぶっちゃけて言えば、飛雄馬の姉ちゃんはその日その日のやりくりに精一杯で焼肉なんてできなかったんだぞ! みたいなレベルの批判でしかない。
よく考えれば、娯楽やちょっとの贅沢は貧乏だろうが必要だし、スマホを解約したところで貧困から抜け出せるわけでもない。
自分の中にある、高度成長前の大衆文化由来の時代錯誤で粗雑で貧困な「貧困」イメージは、いま現に貧しい人の生活がどのようなものかを理解する上での障害になるだけだ。貧乏人を描いた半世紀も前の漫画を読んだくらいで貧乏を「知った気」になっているにすぎない。

「僕は『従軍』という言葉から、鎖につながれたり殴られたり蹴られたりして犯される奴隷的な存在と思っていたけど、実態は違った。将校に恋をしてお金を貢いだり、休日に一緒に映画や喫茶店に行ったりという人間的な付き合いもあった。不勉強だったが、僕はマスコミで独り歩きしているイメージに洗脳されていた」

http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130624/plc13062413040005-n1.htm

つかは、将校と一緒に映画を見たくらいで彼女らが「奴隷的」ではないと言っている。
彼の「奴隷的」の具体的なイメージは「鎖につながれたり殴られたり蹴られたりして犯される」ことを指し、そうでないならそれは奴隷的でないと言いたいのだろう。
ちなみに「奴隷的」の定義はググれば0.2秒くらいでたどり着けるので興味のある人はやってみてくれ。つかの言うようであってもそれは奴隷的であることに変わりはない。
彼はたぶん奴隷を(文字により定義された)概念として理解しているのではなく、ビジュアルなイメージとして漠然と把握していたのではないかと思う。
団塊の世代なのでサブカルチャーなんかにも触れてるだろうし。
実際、つかの言う「奴隷」の類型的というより陳腐なイメージはほとんどマンガである。というより、彼の「奴隷」イメージもそういったジャンルから来ているような気がする。実際、そのようなイメージとして「奴隷」は大衆メディアに流通していると思う。
我々の現によく知らない事柄の表象は、サブカルチャーにおいては作家の想像力によって図像化されている。劇的な効果を演出する上での、文脈に奉仕する形で表現される記号化され変形されたフィクションだ。
で、この種のステレオタイプ化したビジュアルイメージは、たぶん漠然と継承され繰り返し再利用され一定の記号化したパターンとして定着している。
たとえば漫画表現では「金持ち」のステレオタイプ表現は花形満から進歩していない。変化させる必要がないからだ。イメージの発信・流通側にとっても受け手にとっても自分とは関係ない世界のことだから。
我々の関心や知識の欠落を、このわかりやすいイメージはいい感じで埋めてしまう。なんとなくわかったような気になる。
だがこれはフィクションだ。そしてオレの知っている「貧困」も、多分なんの根拠もない、単に劇的な演出効果だけを計画された記号的表現にすぎないかもしれない。
だがそれに気づくことはそんなに難しいことか?
つかは「奴隷」という概念について、大衆メディアで独り歩きしているイメージに洗脳されたままである事にこそ自覚的になるべきだろう。彼は従軍慰安婦について「不勉強だった」が、今は「知った気」になっているだけだ。

*1:たとえば日本のロボット産業は明らかに手塚治虫の描き出したイメージに拘束されている。ルンバみたいのは本来、日本人的には許せないようなロボット観だw