映画「犯された白衣」1967 /非モテとテロル

半端に時間が余ったので映画でも見ようと思ったのだが、どうしてもシンウルトラマンを見る気にならず逡巡してるうちに時間が押し、結局ウルトラマンを見れなくなった。
今からでも見れるのは、、、と探すと渋谷で若松孝二をやってるじゃんか。

 

「犯された白衣」1967年 若松孝二監督

いわゆるピンク映画で1時間程度と短い。
パートカラーの作品で、作中の重要なシーンだけカラーになる。
以下はこの作品の感想、批評というより、見たあとに考えたことだ。ネタバレもある。

 

主人公の若者(唐十郎)が嵐の夜、海沿いの看護師寮に迷い込み、若い看護師たちを意味もなく凌辱、殺戮するというストーリー。

 

嵐のため密室空間であるこの寮に、主人公を引き入れたのは看護師たち自身である。
彼女たちの動機はこの若い異性への(性的な)興味、好奇心で、それが惨劇の発端となってしまう。

当初は無口でおとなしそうだった主人公だが、寮内で一変する。
彼は拳銃を突きつけ、看護師を全て裸にした上で、 怯え抵抗し命乞いをする彼女らを一人ずつ無表情に殺していく。

 

プロットは一見するとポルノ映画として有りがちなものだと言っていい。
ただ主人公の猟奇的行動の動機が全く語られず、そのためポルノというよりほとんどサスペンスホラーである。
描写的にも、性的な凌辱よりも殺戮が強調されており、ポルノ要素はあまりない。
(ただしその残酷描写も、現在の水準から見ればおとなしいものである。)

 


この作品の意外なのは、この殺戮が、最後の一人を残して唐突に終わることだ。
この最後に残った看護師(夏純子) は、初めから怯えも抵抗もせず、最後に残されてからは主人公に親しげに話しかけさえする。
彼女のその親しげな語りかけと親密な視線が彼を無力化し、ついに彼はまるで胎児のように裸の彼女のひざ元に横たわる。

 

 

図像的にもこれは胎内回帰の表現だが、実は監督自身もそう言っている。
そういう意味ではわかりやすい結末であり、ありがちな男性ファンタジーだと言ってもいい。

 

だが個人的に思うのは、どうもこれは監督が言うような「胎内回帰」願望とは違うのではないかという事だ。

 

彼女は彼を恐れていないだけでなく、彼を「わかってくれる」存在として描かれる。そして彼女は全く母性的ではなく、むしろ幼なさが強調された少女である。


「何故? 何故そんなに血を流すの?」
「きみを飾るためさ」
「あたしを飾るのに、どうして他人の血を流すの? どうしてあんた自身の血を流さないの?」
「あたしを飾るなら、あんたのたったそれだけの血でいいのに」
「知らなかった。それであんなに見つめていたのか」
「お馬鹿さんね」

 

ここで睦言のように語られているのは何のことはない、フェミニズム的に言えば「ロマンチックラブ・イデオロギー」である。
吉本隆明的に言うなら「対幻想」であり、母親との同一化願望ではない。

 

要するに主人公にあるのは「胎内回帰願望」ではなく「承認欲求」と言っていい。
彼は異性による「承認」を求めていたのであり、そういう意味では今ふうなストーリーと見ることができる。

だがそれが何故大量殺戮のカタチをとるのか?

非モテとテロル

劇中、看護士はすべて裸である一方で、彼はずっと着衣である。
これは状況的に当然ではあるものの(彼に服を脱ぐよう命令されいてる)、図像的には不自然な対比で、彼が身体の露出を拒んでいる印象を与える。
彼は看護師たちの裸の身体を「見る」一方、自らの身体を「見られる」ことを拒んでいるように見えるのだ。

 

 

この作品において「見られる身体」とは性的な身体である。
(それは作品冒頭、二人の看護師による性行為が他の看護師に「覗かれる」ことで示されている。)

 

したがって彼が身体を「見られる」事を拒むのは「性的に見られる」事を拒むことであり、それは彼の性的な「自信の無さ」「役に立たなさ」を暗示していると言っていい。

 

そもそも彼がこの看護師寮に招き入れられたのは、彼女たちの「異性への好奇心」からだ。
だが彼はそれに応えられない。彼ができることは拳銃を振り回すことだけだ。

この「拳銃」は彼の性的な「不能」「自信の無さ」の喩/代償と思われるが、その結果起こるのは殺戮である。

 

彼が看護師達の中にこの無垢な彼女を見出すのは、彼女が彼を見るその視線によってだ。
彼が2人目の看護師を射殺したとき、彼女が彼を見つめていることに気付く。他の看護師とは違い、彼女だけは怯えていない。

 

「何故そんなに見るんだ。」
「何故見るんだ」

 

彼の殺人はこの時までに「性的な凌辱の失敗」を意味することが明らかである。彼女はそれを見ているのだ。

だがその彼女の視線は、彼への性的な期待も怯えもない。

彼の問う「何故見るのか」とは「何故自分を性的に見ないのか」という意味だ。主人公は彼女の視線の質を問題にしている。
彼女には「性的に見られる」ことがないと知った時、彼は殺戮をやめる。
彼女の膝に抱かれる彼は裸になっている。

 

 

これを彼の成熟の喪失と呼ぶべきかはわからない。
単にそう呼んでしまえば、胎内回帰とはいわないまでも、幼児退行として説明できるストーリーになる。
1967年当時であれば、当然にそのように解釈されたろう。
大の男が女の(性的な)視線にたじろぐなどという事態にリアリティは無かったかもしれない。
つまり彼は「大の男」になり損ねているに過ぎないのだ。

 

実は映画のラストで、この性的なファンタジーは単なるポルノではなく、現実的な政治・権力闘争の問題なのだと示される。
若松監督は当時の文脈において、現実的な闘争に疲れた/傷ついた男が退却する場として少女を夢想しているといっていい。

 

だが、それはつまり成熟した男女の関係もまた権力闘争の場だということだ。
実際、これを2022年に見る者は、そこに「性的弱者」男性の苦境と自暴自棄を見るかもしれない。
女からの性的な侮りの視線への、弱者男性の復讐劇と見ることができる。
それには一定のリアリティがあり、 現実にそれに似た構図の犯罪が起こってもいる。

 

 

だが1967年だろうが2022年だろうが、承認といおうが革命といおうが弱者男性といおうが、 結局男がやっている事は「無差別に女を殺す」事だ。
彼が現実的に抱える問題が、それが何であっても、彼の内面において女からの性的な侮りに置き換えられる。
それは一体何故なのだ?