カルトと信教の自由戦士

安倍元首相が襲撃されて約1ヶ月になる。
いろいろと展開していてなかなかに騒がしいw
ただ事件そのものに関して個人的に印象深いのは、容疑者の動機があくまで旧統一教会への恨みで、安倍元首相が狙われる直接的な動機が無いということだ。

 

本人の供述的にも、本当は(教団リーダーの)韓鶴子を狙っていたのだが無理なので、教団とつながりのある安倍元首相に狙いを変えている。
要するに、一国の首相まで勤めた人物が、単に他の誰かの代わりに撃たれている。

 

これは何というかマンガのような話だ。
多くのメディアが言うように容疑者の行動に飛躍がある。
彼は何を狙ったのか、何を撃とうとしたのか判然としないように見える。

 

個人の信教の自由

今やこの件は、容疑者が、自民党統一教会の関係を暴露するために行った、とみなされている。

だがそもそもの発端は、彼は統一教会との関係において「被害者」だったということだ。
自民党の存在など(つまり安倍晋三など)二の次のはずだ。

 

そして正確に言えば、彼を追い詰めた「加害者」は、実際のところ統一教会ではなく彼の母親である。
彼女の信教こそが家族の経済と生活を破壊している。
ある意味では、彼の家庭との関係において、統一教会は特に何か問題のある振る舞いをしているわけではない。
彼女の行動(教会への寄附・献金)はタガが外れていると感じるが、それでも彼女の主観的には彼女自身の自由意思によるものだろう。
それは洗脳のせいかもしれないが、責任能力を持つ大人に対して、他人が簡単に「洗脳されている」と決め付けられるものでもない。


不在の被害者

実際、福田議員はこんなことを言って、批判されている。

mainichi.jp

統一教会関係者による選挙応援に関しては「宗教・信教の自由を行使している方が応援してくれることが、旧統一教会から応援を受けることになるのかとの議論もある」と指摘。

 

この発言は顰蹙を買い、冷笑された後に忘れ去られたが、個人的には一連の事件報道中のエポックだと感じている。

 

山上容疑者が被害者でないのは、母親が加害者では無いからだ。
母親の振る舞いが加害で無いのは、それが「個人の信教の自由の行使」にすぎないとされるからだ。
福田議員の発言はこのロジックを下支えするものだ。


「自由戦士」たち

実際のところ、どこまでを信教の自由とし、どこからがカルトによる洗脳なのか、現実的には簡単に言えない。

 

だが議員が上で言ったことは、 そういう線引きが難しいなどという事ではない。
そして個人的には、この問題の本質はもっと別にあると感じる。自民党が問題になるのはそこにおいてだ。

 


山上容疑者は親の自由に押し潰されている。
教会も、信者も、その家族も、自由の観点からはその振る舞いに何も問題が無い。
いわば苦しむ者は自己責任で苦しんでいるだけだ。
彼の自己認識もそれに近いものだったろう。彼は自分の教団への恨みを不当なものと思っているはずだ。だからこそ彼は敢えて「不当な行動」へ踏み出せている。

 

これが犯行への心理プロセスだ。
だが、何かがおかしい。それは別に保守系与党と宗教団体の関係がどうという話では無い。

 

連中がうそぶく「個人の信教の自由」なるロジック、それで全てを処断しようとする態度こそが、この詐欺的な環境を準備し、彼を追い詰めている。
自らを被害者と認識できないような環境が存在している。苦痛は全て自分の責任であると受け入れる他ない状況が出来上がっている。だがそれは何者かに意図的に作られたものだ。

 

単に統一教会の繰り返す詐欺だけが悪なのではない。カルト宗教と癒着する政治が悪だというだけでもない。
ここにはもっと別の悪が存在している。
それは「自由」なる名を以って語られる底無しの悪意のようなもの
で、それが現実社会において政治権力的言説として存在している。