村八分のはじまり

いわゆる苛酷な排除/差別としての村八分が実は明治期に始まっている、というのはどこかで聞いたことがある。

村八分が始まったのは実は最近?:Kousyoublog

「旅が一般化していくことによって人々が村の外の世界(ひろい世間)を知るようになると」ムラの結束が弱まっていった、そうで、そういうこともあるかなーと思う。確かに近代以前から日本人はやたら旅をしている。
ただ以前何かで読んだのでは、そういった内部の人々の変化によるものというよりは、もうちょっと社会構造的な問題としているものがあった気がする。それについて。
(だいぶ前なのでカナリ脳内補完入ってると思う。。。)

それ以前は村落共同体はそれ自体として一個の完結した全体性を持った空間だったのが、明治の近代的な国家/経済システムに組み込まれ「全体を構成する一部分」に成り下がったため、というような感じだったと思う。(無論それまでも幕藩体制の下にあったわけだが)
村がもっと他のものの「部分」へと再編成されることで村の「世界の全体性」が解体し、村から失われつつある全体性を維持したいという住民達の無意識が、いわゆる新しい村八分を生んでいる。村落内の誰かを差別/排除することで、それ以外の成員の結束を強化=組織の安定を図るというよく知られた構図だ。
要するにこの時期、村の構成員にとっては、中央集権的な近代国家の成立が伝統的なムラ社会の崩壊の危機として認識されており、この崩壊を阻止しようとして「村八分」は起こっている訳だ。
この動機は村および住民のアイデンティティに関わる切実なもので、その分苛烈なものにエスカレートしていっている*1。この種のイジメ問題は今もアチコチであるのだろうが、この「陰湿なイジメ」を単に中の人の人間性とか倫理観の問題として捕らえるより、崩壊しつつある組織を維持したいという努力なのだと考えられそう。
そこでは成員に組織の「全体性の崩壊」の自覚があり、つまりある共同幻想*2が崩壊していく際にやむにやまれず起こるのだろう。
この後現在に至るまで村は崩壊を続けているが、村を包摂した「全体」=近代国家が、旧村人をその大いなる幻想の中に取り込めたかは微妙。皇国史観の絶頂期にも「非国民」なる実質的な排除の語と身振りが必要とされているが、「国家」という幻想は個人にとってはちょっと大きすぎる・距離が遠すぎるのかなとも思う。もっとも簡単に自己を投影できる人もいるようだし、、、
ただこの種の内部でのイジメが、外部からの(経済構造的な)圧迫によっているというのは、考え方としてわかりやすいと思う。

*1:近代以前の村八分はもっと形式的というか、儀礼的なものだったという説もあるらしい。
単にムラの災厄を引受ける儀礼的な役割で、期限を区切ってローテーションしていたという話も。

*2:吉本隆明の言う共同幻想マルクス主義の上部構造のことなのだそうで、その意味では前近代のムラ「世界」はむしろ下部構造に近い。これの疎外の形態として近代国家幻想ができているということになる。