ナショナリズムとサッカーとその結び付きの凡庸さ

セルフまとめはイタい事が多いが、これは良いまとめ。少なくともまとめ主(id:murishinai)の主張が非常によくわかる形で説得的にまとめられている。(これ、もう一週間ほど前の話なのね)
サッカーにおけるナショナリズムと“日本代表の敗北を喜ぶこと”の是非について - Togetter
ここにおいて一方の地下猫氏に関しては、その主張が体系的・網羅的にまとめられているかはわからない。なので彼の主張の評価は保留するしかないが、それでもいくつかどうしても看過できない発言があったので多少。

そのほか、これに関連する最近の気になった話題も。
日本代表(選手)の敗北を喜ぶことと、日本におけるナショナリズムを批判することの間には妥当な必然性があるか? という問いにはここでは踏み込まない。そんなものある訳がないからだ。
五輪やW杯のようなスポーツの世界大会が大抵はナショナル/ネーションと結びついているのは間違いのない事実で、それは単に国別対抗という体裁を取っているというだけでなく、それ以外の可能性を排除しているということに見てとれる。
W杯のそのような運営方針自体がナショナルを前提しており、その意味でナショナリズムとの結び付きは不可避と言ってもいい。
しかしそれはFIFAの(体質の)問題であって、サッカー/スポーツの問題ではない。誰でもそんなことなどわかっているというような顔をするが、実際にわかってるかは怪しい。
サッカーは(たとえば「個人」がそうであるように)、それ自体としてはナショナルを超える可能性を持っている。現にナショナルなものとの結び付きの中で存在しているにせよ、それがサッカーの(あるいは「個人」の)全てではない。それはナショナルと全的に不可分に結びついているわけではない。ましてナショナルなものがまずあって、それによって初めて存在しているようなものではない。
だがそのように語る者はいる。それは「ナショナリズム」と呼ばれる語りで、国民は国家があって初めて存在する、あるいは国民と国家の結びつきの必然、運命、自然性を、さらにその特権性を言い立てる。
それは誰も本来的には「たまたまそこに在るすぎない」という事実が強力に否認される。
そのような語りには、よく知られたうんざりするような文句の他に、以下のようなものもある。

これはナショナリズム批判、およびナショナリズム的体質を持つFIFA/W杯批判として言われている。それは現状の認識として正しい。
そしてそれは「現実」であるが故に「前提」だという。
ここに詐述が滑り込んでいる。それはスポーツとナショナリズムの宿命的な結び付きを捏造するものだ。
端的に言えば、上記ツイートのスポーツ/サッカーを「個人」とでも置き換えて読めばいい。ナショナリストが泣いて喜ぶロジックになる。
スポーツには(「個人」には)ナショナルを超える可能性があるが、それがここでは強力に否認されている。彼は別のツィートでその種の「可能性」に余地を残しているかのようにも見えたが、ここでトータルに否認されている。それは単に言葉にすぎなかったのだ。
言葉ではなく、既にある「事実」こそが特権的に「宿命」を証し立てていると語っている。批判的文脈であるかは問題ではない。
ナショナリズムは、その単純な批判者と共犯的・相互補完的に自己を形成していくからだ。
それ以外に面白かったのが以下と、そのブコメ
ゲームに登場する女性キャラはいかにして性の対象として描かれているか? - GIGAZINE
この、単にゲームにおける女性記号の取り扱われ方(消費のされ方)を示したものだが、ジェンダーフリー、あるいはポリティカルコレクトネスへと反射的に結び付けられて理解されている。
まあこの手の分析や主張は告発調になるのが普通なので、告発されたと感じがちな側がうろたえるのは当然なのだが、ここでは特に何かが告発されてるわけではない。改善が要求されているわけでもない。
単に事例が列挙され、その意味が解かれているだけだ。
そこで現に何が表象されているのか、その啓蒙が目的の動画/エントリと言っていい。
その表象の意味・意図が解けないと、そこにあるものは現にそこにあるという理由で「自然」で「必然」であり「正当」であると理解されるからだ。そのような不用意さ・思慮の無さに対して、単に批判的であることは時には逆効果である。
あとこれ。
http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/191681.html
アレントはたぶん保守的な人物だが、そうであっても全体主義を拒むことは可能で、それはナショナルな表象に超越性を、なにか不思議な力があると認めないことだ。
ナショナル/ネーションに自己を投影・従属することは近代社会においてありふれており、そしてその深さのない陳腐さ・凡庸さこそが偏在する悪だと言っている。この表層しかない悪にわかりやすい批判を対置することはできない。それもまた凡庸さだからだ。

 アーレントはそうした悪に抵抗しうる可能性として、思考すること、考えることを追究します。「ものごとの表面に心を奪われないで、立ち止まり、考え始める」ことを彼女は重視しました。

http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/191681.html

最後に
当初ザッケローニの日本代表メンバーだった李忠成は元在日韓国人で、過去に日本(五輪)代表になるために日本国籍を取得している。無論彼が単に「李忠成」としてサッカーを続けることを阻むのはFIFAの都合であり、彼が日本国籍を取得したとしてもそれはナショナリズムへの従属でもなければ加担でもない。
むしろそう見るのは、ナショナリズムに何か超越的な力を見ようとする者だ。このナショナルなものへの鈍感さ・凡庸さこそ批判されなければならない。
それは李忠成という「個人」を「李忠成」としては見ず、単に日本人/韓国人としてのみ見るような態度だ。これがナショナリズムでなくてなんだろう。
だがその問題は、それこそがナショナリズムへの加担であるというよりも、現にブラジルに在るナショナルを超え得るかもしれない「個人」や「サッカー」の「可能性」を粗雑な二分法で塗りつぶしてしまうことの方だ。
『そんな「可能性」など、「現実」の前では言葉にすぎない。』
このありふれた詐術は、そもそもナショナリズムこそ言葉によって語られているにすぎないということを、むしろ「個人」や「サッカー」こそ言葉以前に存在しているということを、発話者自身にさえ忘れさせる。

クリミアにおける19世紀と21世紀(の悪魔合体)

ウクライナでのゴタゴタにロシア(以下プーチン)が首を突っ込んでいる。
特にプーチンウクライナのクリミア地域における「ロシア系住民の安全」のためと称して、同地にロシア軍を展開・駐留させるというやり方には、多くの人がヒトラーを想起したとしても無理はない。

ウクライナのハルチェンコ大使は2日、都内でNHKのインタビューに応じました。
この中でハルチェンコ大使は、ロシアが、ウクライナのロシア系住民とロシアの国益を守る権利だとして、軍事介入の構えを見せていることについて、「ウクライナで今起こっていることは、1930年代にナチスドイツが自国民の保護を名目に各国に侵攻した状況と似ている。国際秩序への大きな挑戦だ」と述べ、ロシアの対応を厳しく非難しました。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140302/t10015649911000.html

さて当時、このドイツの行動に対するイギリス・フランスなどの当初の対応が「弱腰」だったとの評価が定着している。
同様に今回のプーチンの行為に対してアメリカ/オバマの対応が「弱腰」と見る向きもあるようだ。オバマは就任以来、外交下手との評価があり、特に日本人的には中国に対する「弱腰」を指摘する人たちも多い。
だが本エントリは現今の緊迫するウクライナ情勢について考えるものではない。一連の情勢を見ていて、現在個人的に悩んでいる小学生の社会科を思い出したのでそれについてだ。この出来事は、ベルサイユ体制あたりと日本の膨張政策のかかわりの説明に使えそうに感じた。受験には最近の出来事も出る。

20世紀的秩序の始まり

ウチの子は社会科が苦手だ。いまは日本史に苦戦しているが、要するに単純な暗記が苦手らしい。歴史的事件と年号を個別的にただ無意味に記憶していくということができない。
こういう子は男子に多く、対応としては全体の流れを把握させ、個別事例を全体の中で意味を持つ事柄として位置づける、というのがセオリーだ。
ということで、三国干渉とか国際連盟とか対日石油禁輸とかを、こうだからこうなった、こうしたからこうなった、的に説明するといい。関連が明らかになれば、個別事例は芋づる式に把握することができる。
ええ自分用まとめですよ。間違ってたら茶々入れてくれ。あくまで小学生/中学受験レベルの社会科だ。慰安婦は出てこないぞw。
20世紀に入って科学技術が発展し、戦争で大量の人間が死ぬようになった。
1904年の日露戦争での与謝野晶子の例の詩もこれを受けてのものだ。
一方欧州では1914年に20世紀最初の大きな戦争、第一次世界大戦が起こっており、これでとんでもなく人が死んだ。
これを受けて、とりあえず戦争はもうしない方がいいということになり国際連盟を作った。
第一次世界大戦オーストリアの皇太子が殺されたっつーちいせぇ事(by息子)で大戦争が起こっており、今後は些細なことで戦争が始まらないように、なんか起こったらすぐ戦争せずにまず話し合いましょうとした。
その時の決め事が、
イザコザが起こったら国際会議の場で話し合いましょう
こじれたら他の国が事実関係を調査し、悪い方にやめるよう注意します
それを無視したら、他の国が協力して経済制裁をします
というもので、このステップは現在の国際連合でも踏襲されている。たとえば2014年現在、北朝鮮経済制裁を受けており、またシリアには国連調査団が入っている。
またこのステップが最初に適用されたのが1931年満州事変(〜日中戦争)で、日本はいろいろ言い訳をしたが結局調査団に日本が悪いと言われ、国際連盟の決議を拒否して脱退したら誰も石油を売ってくれなくなった。
困った日本は石油を奪うしかないと考え、一番近い産油地域東南アジアに攻め込む事にしたが、そこには米軍がいるので必然的にアメリカと戦争することになったのが1941年。

さてウクライナ

この小学生的歴史観によると、戦争を当事者同士の問題としてではなく、多くの第三国が関与しつつコントロールしていこうとする発想はこの時はじめて生まれたもので、いわば20世紀的な国際秩序の発想だと言っていい。20世紀の戦争テクノロジーがもたらす危険性の認識が根底にあるからだ。
一方、当時のドイツと日本はこの20世紀的な秩序維持の発想が持ててない。結局、単に自分が攻め込んだ国だけでなく、世界中を敵に回すことになる。
ヒトラーオーストリアに攻め込んだ時、当初各国が実力行使に出なかったのはあくまでもこの新しいステップを踏むためだったが、その発想のないヒトラーには単に「弱腰」と見えた。
恐らく今オバマも、プーチンに対してこのステップを踏もうとしているので、それを「弱腰」と見るのは19世紀的な国際秩序理解だ。この次には国連調査団がウクライナに入り、何らかの裁定が行われるだろうし、経済制裁になるかもしれない。
今はむしろ国連における名分をおさえなかったブッシュの2003年イラク戦争こそ国際秩序の無視だったと評価されており、オバマはそれを避けたいはずだ。

*

さて大人の話だが、実際のところプーチンが19世紀的な頭の持ち主である可能性は否定できない。その時ロシアのような大国に対して最終的に何ができるのかは微妙だ。
それにプーチンの頭が何世紀だろうが現在は21世紀で、ロシア軍はそれにふさわしい形態をしている。

親ロシア派住民の多いウクライナ南部クリミア半島に2月末、突如出現し、空港などを占拠した謎の武装集団について、ロシア政府と契約関係にある民間軍事会社の要員であるとの見方が米国内の報道で出ている

http://www.jiji.com/jc/c?g=int_30&k=2014030200244

これはもっぱら21世紀になって米国がやってることだ。民間軍事会社に作戦行動を委託することで国家の責任を逃れることができる。国家間戦争には国際条約に基づくルールがあるが、民間企業の作戦行動にはそれは及ばない。
アブグレイブでの捕虜の虐待・拷問はもっぱら民間企業が行っており、これほど非難されながら米国政府が知らん顔できるのはそれが国家とは関係ない企業活動だからだ。)
無論これはロシアの企業だって同じだ。
もはやプーチンは怖いもの無しだ。「国家間紛争」を念頭に置いた20世紀的な国際秩序のルールから大手を振って外れることができる。今は21世紀なのだ。

社会学者としての上野千鶴子の絶望

上野千鶴子がこんなことを言ってる。

「女子力を磨くより、稼ぐ力を身に付けなさい!」上野千鶴子さんが描く、働く女の未来予想図 - Woman type[ウーマンタイプ]|女の転職type

ある意味この人らしい物言いだと言っていい。ブコメを見ると、特に以下のような部分に違和感を持たれるようだ。

だから、現在20代や30代の若い女性たちも、ゆっくりまったりと生きていけばいいじゃないですか。成熟期の社会では、皆が髪を振り乱して働き、他人を蹴落としてまで成長していかなくてもいいんですから。賃金が上がらないといっても、外食せずに家で鍋をつついて、100円レンタルのDVDを見て、ユニクロを着ていれば、十分に生きて行けるし、幸せでしょう?

「女子力を磨くより、稼ぐ力を身に付けなさい!」上野千鶴子さんが描く、働く女の未来予想図 - Woman type[ウーマンタイプ]|女の転職type

同種の文言はもっといかがわしい連中によって、精神論というか自己啓発的・マインドコントロール的に語られることが多いからだ。
もっともこれはそう読むべきではないだろう。はっきり言えばこの部分は「あなたは300万円の年収なのだから、それにふさわしい楽しみで満足するより仕方ないのよ。それは自分に見合った程度の娯楽でしょ」と言っているだけだ。
だたこれを、たとえば一部の保守主義者にあるような「身分相応」という考え方と読むべきでもない。
単にそれぞれの「私」の現実において生きるしかない、といった程度の事を言っているだけだ。それは自分の「分」をわきまえろ、というようなことではない。もっと身も蓋もないことだ。

上野の絶望

例の「おひとりさま」以降の上野に対する批判は、おおむねそのようなものだ。
「老後おひとりさま」なんて、単にお花畑なスピリチュアルw幸福論か、そうでなければ上野自身のように社会的・経済的に高い「身分」にだけ可能なことで、多くの日本人に一般化して語れるものじゃない、的な。
「おひとりさま」以降、上野は基本的に自分自身についてしか語っていない。現にある自分の立場にのみ基づいて語っている。そこに生活保護すれすれのシングルマザーの老後など入ってこない。
多くの読者は彼女に「社会学者」を期待するが、彼女はもうそういう立場としては語っていない。

どういうことかといえば、彼女は現実にある人のライフサイクルを考える上で、もう社会制度や政治政策を全く考慮していないということだ。単に、その人の現に可能な生活を語っているだけ。

そこに社会学者らしい(政策)提言はない。
このエントリでも、現行の政策や制度の問題点を指摘はしているものの、是正を提言することはない。望ましい社会制度を構想することもない。

結局のところ、日本企業の多くはいまだに男社会のルールを変えず、「オレたちのルールに従えるなら、お前たちも仲間に入れてやってもいいぞ」と女性たちに言っているだけです。ただし、こうした差別型企業は、グローバルマーケットにおける企業間競争に負けるでしょう。

「女子力を磨くより、稼ぐ力を身に付けなさい!」上野千鶴子さんが描く、働く女の未来予想図 - Woman type[ウーマンタイプ]|女の転職type


彼女はもう徹頭徹尾、この国の行政や政策、制度や社会に絶望してるんだと思う。もうそれを変えようなんて思ってないし、変わるとも思ってない。
ただそこでいかに生き残るか、各自が自分の現実的な条件の中で生きる方法を考える必要があるとだけ言ってる。ここには(社会変革への)意思も期待もない。
もう大文字の社会などない。彼女がもはや右翼でも左翼でもないのはこのような場においてだ。
身分や社会階級の自覚が自分の助けになるなどカケラも考えていない。それは制度的・政策的な変革についても同じだ。
社会保障が充実すれば、マクロ経済状況が上向けば、、、しかしそれが「おんな」を助けるなどと信じていない。
ここで彼女は右でも左でもなく(無論真ん中などでもなく)、単に孤独だ。
(かろうじて思想家としての彼女は「女縁」なる連帯概念を言うが、これを社会学的に見るべきではない。)

日本の老後

上野が齢をとったということかもしれない。
いずれにせよもう時間が無いのだ。自分が生きている間には、望ましい「社会」などやってこない。
この変わらなかった社会の中で、現実的条件の中で老後を生きるしかない。
だが彼女の絶望は多分もう少し深い。

「もう時間がない」のは60を超えた上野千鶴子だけではないからだ。
彼女がいまだ社会的発言をするのは、その聞き手(若い女性を想定しているだろう)もまた将来において上野と全く同じ絶望に直面するからだ。
社会がどのように変わろうと、彼女たちはいま上野が直面しているのと同じ絶望にやがて直面するだろう。何も変わらないからだ。
今年生まれた女の子の未来とは、すでに上野が経験した「変わらなかった過去」だ。彼女たちにとってすらもう、社会が変わるのを待つだけの「時間はない」。
だから基本的に、現に自分が手にしているものだけでその生涯を生きるしかない。だから全ての女性はたとえ300万でも独力で稼げるようになる必要がある。
そこに到達できなかった弱者は、上野にとってももうどうすることもできない。
それは思想でも学問でもなく運動によって社会とコミットしようとした人の結論だ。それは自己責任論とは違う。

「女子力を磨くより、自分に投資をして稼ぐ力をつけなさい」
これが私から若い女性たちに送る、これからの時代を生き抜くためのアドバイスです。

「女子力を磨くより、稼ぐ力を身に付けなさい!」上野千鶴子さんが描く、働く女の未来予想図 - Woman type[ウーマンタイプ]|女の転職type


おまけ
これは男というだけで一定の社会的信用があり、基本給が高い側にはわかりにくい部分はある。
ただ女性の地位の向上は今後も続くだろうが、一般に社会的な「女性の優遇」はカネを払える女性に対して行われてる。女にこそカネが必要なのだ。

掛け算の交換法則と低い次元の人のものの見え方

数年おきに出てくるこの問題が、一部でまた再燃している、というよりずっと消えていないのだろう。
「掛算順序固定」問題 - Togetter
かけ算の順序にこだわる教師と出版社の皆様へ
すでにこんな優れたw 分類まで出ており、、、ちなみに本項は肯定派-教育論派-根拠はあるよ派だが、否定派の算数国語分離派でもある。
掛け算順序問題派閥チャート
ちなみにこれはid:sokodoraによるIDコールの応答として書き始めたものだが、このIDコールって仕組みの「放課後体育館の裏に来い」的な不穏な雰囲気は怖いな、、

「掛ける」って何?

この件に関しては、確かに4本脚の鹿が5頭いて全部で脚は20本、を 4 x 5 だろうが 5 x 4 だろうがいいじゃねーかそんなもん、というのはわかる、というか自分の子供がちゃんと20本と書いたのにバツになってたらそりゃ理不尽だと思うだろう。
これはだいぶ前に書いたのだが、子供が(大人も)掛け算の順序に迷うのは(迷うから交換法則=可換性を持ち出し曖昧さを無化しようとする)、「掛ける」という語の意味・作用が直感的でないからだ。
普通われわれは文章問題を数式に直すとき、いったん「足す」「引く」「掛ける」「割る」という語により状況の変化を整理・抽象化してからそれを数式に置換する。
その場合、たとえば「足す」は作用が明確なので子供でも混乱しない。
「電線に5羽のスズメがいて、後から4羽来ました」という問題なら、大抵の子は迷わず

5 + 4

と式を立てる。5羽に、後から来た4羽を「足す」でいいからだ。
だが掛け算だと問題になるほど逆に書く子が増える。「掛ける」という語の意味がよくわからず、問題文中に起こっている現象をどう表現していいかわからないからだ。その結果「可換性」とか言い出す連中も出てくる。
だが可換性は数式を解く際の「規則」にすぎない。
例えば池に5羽のカルガモがいて、2羽が家に帰ってしまったら、、、は

5 - 2

でしかあり得ない。2 - 5 ではいけないのは「可換性」の問題などでは全くない。(まさかこの式は、引き算は不可換だから大きい数字が前、が根拠だとでもいうのだろうか?)
この式は算数規則によってではなく「5羽から2羽引く」という文章表現、およびその論理構造により決まっている。
「文章問題」で真に問題にされるのは、この文章を組み立てる論理能力だ。計算力ではない。
そしてここで言う論理能力とは、問題文の文章構造を解析し、概念を一意に取りだすことだ。
それには何が主語で何が目的語か、どのような動作が起こっているのか、といったことを正確に同定し、把握する必要がある。
後はそれを数式に逐次に翻訳・置換する、これが文章問題における「式を立てる」ということだ。
同一の文章から二通りの主語や目的語は出てこない。
文章を意味的に多様に「解釈」することは可能だが(着目するのは5頭の鹿なのか4本の足なのか、とか)、文章自体は一意に与えられており、そこに構造的に配置された主語は基本的に一つだ。
それにより上の引き算の前後項は決まっており、当然それは掛け算でも同じだ。
これをどうでもいいと言ってしまうなら、引き算の前後を決定するものは一体なんだ?
掛け算における前後項の混乱は、文章から一意に主語・目的語を弁別できないことが原因で、それは読解力の問題だが、掛け算においてのみそれが頻出するということは、要するに「掛ける」という日本語の意味作用の不明瞭さに起因している。
「掛ける」という言葉が具体的にどのような現象を指すものなのかが分からず、問題文を「掛ける」を使った表現に正確に置き換えられない。掛け算を使うことが分かっていてもだ。
5頭の鹿に4本足を掛ける??? 足が鹿に掛けるのか? つか立てかけるのか? みたいな。
実際、この語は素朴に直感的に日本語として意味がわからない。「掛ける」という語を適切に使えないことが原因で主語や目的語の混乱が起こり、数式における前後項の混乱が起こる。それは主体が何で、それにどんな作用が起こっているのか適切に表現できないということだ。
その際、交換法則は便利な言い訳になるだろう。最終的にはどっちでもいいからだ。だが前後関係には明確に文法的・論理的な根拠があることに変わりはない。

論理と規則

ちなみに、文章から一意に決まる数式を組み立て終わったら、そこからが算数規則の適用だ。お好みで交換法則でも何でも駆使すればいい。
だがここまでは算数ではない。ここまでは文章の論理構造を読み解き、それを数式に翻訳することで、算数規則の出る幕ではない。文章問題は子供の読解力・論理的能力を見るためにあるの。
さらにちなみに、小学生レベルでは算数は単に規則や形式の体系に過ぎない。算数規則により無問題だからといって、論理的に正当であるわけではない。論理的であることと、形式的・規則的であることは違う。
そして最後に、この「掛け算」問題が多くの人をいらだたせるたぶん最大の原因は、答えが合っているのに(そしておそらく子供は正しく理解しているのに)、掛ける数と掛けられる数の位置が違うというだけの理由で一律バツになってしまうという、教師の「形式的」過ぎる対応だ。
多くの人は教師にもっと「論理的」に判断してもらいたがっている。

階層の混乱

もうおまけなので読み飛ばしてOKだよ。
この手の(何年も前から続く)「論争」を見ていて思い出すことがある。
2次元世界の住民(アニメキャラじゃないよ)が、3次元空間をどう見るか、という子供時代に聞いた話だ。
2次元の人は、2階建ての建物の1階と2階にそれぞれ人が住んでいる状況を「そんなことはありえない」と考えるというものだ。平面座標上では1階も2階も同じ場所で、同時に2人が同じ場所にいられるはずがない。
無論3次元空間は縦方向にも階層化しているので、3次の住民はこの2人の場所を混同することはない。
「掛け算」の問題にしても、文章題を解く過程で言語的な論理能力と算数=形式的な規則を別々に用いる必要がある。これらは別のもので、一つの問題の中にあるが別の階層の事柄だ。
だが、特に交換法則を言い募る人の中に、この階層が見えていない人がいるように思う。別々の階層の事柄を一緒くたにしている。
数式を解くのに算数規則は有用だが、数式を組み立てるのに算数規則を用いることはできない。交換法則はすでに出来上がった式を解くプロセスで出てくるのであって、それは式を立てることではない。
式を立てるにはまた別の方法とプロセスがあるのだが、「数式」という同一の「平面座標」上にあるという理由でそれらを区別していない。算数規則が「数式になる前」の階層にも適用されると言っている。まるで2次元に住む人が3次元世界を見るように。

被曝者を「3本腕の怪物」と見ている人について

例の、フランスの週刊誌の風刺画に対して日本政府として抗議するということらしい。

仏週刊紙が五輪と原発問題絡めた風刺画、日本政府は抗議へ
フランスでは去年、福島の原子力災害と絡めてサッカー日本代表のGK川島を4本腕にしている。
今度は3本腕の力士だと。
風刺画にあって、たとえば腕が4本だったり体が両生類だったり足がロボットだったり、なんてのは別に珍しくもない。
その意味では、たとえば川島の腕が4本になったところで、放射線被曝のステレオタイプな表現だろう。
当時、川島はそれを悲しいと言っているが(多くの日本人もそう感じるだろう)、実際のところこの「悲しさ」はいったいなんだろうとは当時も思った。これがフランス人には通じていないようだったからだ。
日本人の「放射線被曝」に関する視線は、フランス人とはかなり異なっているのではないか? それが両国の反応の違いになっているのかも、と思うようになった。
そのような「視線」とは、被爆を奇形へ、そして被差別へとダイレクトに連想することで、それはたぶん日本人に固有のものだ。
フランス人が放射線被爆にどのような感覚を持っているかは知らないが(フランスの「風刺」はこれで2度目だが、原子力大国として被爆について他の国とは違う屈託があるのだろう)、少なくとも川島が感じるような悲しみは理解できないだろう。
この「悲しみ」は差別されることの悲しみで、それは日本人自身の問題だからだ。
戦後の日本人の「核アレルギー」はよく言われるが、これは広島・長崎の被爆体験が原点としてある。
しかしこれは核攻撃の被害者・放射能汚染の被害者としての意識というだけではない。
その後、日本人自ら、広島や長崎の被爆者に対する(心情的・社会的なレベルでの)差別を行っていることが、日本人の核に対する意識におそらく重大な影響を与えている。
戦後早い時期から被爆者は「ヒバクシャ」としてラベリングされ、「向こう側」へ追いやられた。単に病傷者としてではなく、(ケロイドのような)扇情的で定形化したビジュアルイメージと結びつき、ほとんど「ケガレ」の観念によって生理的に嫌悪され、烙印されている。
現在はさすがに生理感覚的な嫌悪や忌避は薄れているだろうが(単に時間経過の効果…人数が減ってるからだ)、形を変えて引き続いている。たとえば被爆者を詐欺師呼ばわりする連中は少なくない。
日本人の「核アレルギー」は、核兵器原子力の忌避ではなく、被爆健康被害の忌避でさえなく(日本人はキレイな被爆としての白血病は大好き)、「ケガレ」の忌避で、端的には自分たちがやってきたヒバクシャ差別が自分自身に折り返ってくることを恐れていると言っていい。

去年、川島を4本腕にした際の、当事者の言い分。

 一方、司会者のローラン・リュキエ氏は日本側が抗議しフランス側が謝罪したことについて「ばかげた議論だ」と語った。17日付のパリジャン紙に「私の冗談の対象は2つ。日本に負けたフランス代表と、原子力災害が引き起こす結果だ」と述べ「私は福島の被災者に敬意を持っており、被災者については何も言っていない」と主張した。

http://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2012/10/18/kiji/K20121018004354551.html

だがこの件に関して日本人は、「原子力災害が引き起こす結果」自体には特段興味がない。一方フランス人はそれを冗談にしたので、そういう意味では何が悪いということもない。
ただ日本人にとってこれは「原子力災害の結果」だけでおさまる問題ではないのだ。
3本腕の怪物というビジュアルイメージは、彼らにとっては冗談だが、日本人にとってほとんど存在論的な不安である。フクシマが地理的・心理的に近いからではない。被曝者を怪物/異物と見る視線や発想は、フランス人には荒唐無稽な冗談でも、我々にとってはリアルな現実だからだ。
実は他ならぬ我々自身が放射線被曝者を「怪物」と見ている、それが暴かれている。無論これはフランス人は全く意図していない事だ。
日本人にとって、福島の災害は単に原子力災害なのではなく、われわれ自身が被差別者に転落するかもしれない、という恐怖を伴っている。
自身が歴史的に行ってきた行為に復讐される、存在論的な不安といったのはそういう意味だ。

このニュースのブコメにはこれをフランス人の「悪意」と表現している人がいる。しかし彼らの弁明を見てわかるとおり、彼らはそもそも被曝者に対する差別の「視線」自体が無いようで、したがって「悪意」もない/理解できないようだ。

これに対し、同紙のルイマリ・オロー(Louis-Marie Horeau)編集長は、「われわれには悪意のないように思える風刺画」に対する日本からの反応に「ただただ困惑している」として、「ユーモアを表現しているからといって、被災者の皆さんを侮辱していることにはならない。ここ(フランス)では、悲劇に対してはユーモアを持って立ち向かうものだが、どうやら日本ではそうではないようだ」と語った。

福島風刺の仏紙、「ユーモア感覚ない」と日本の批判を一蹴 写真3枚 国際ニュース:AFPBB News

ここで、被曝者への「悪意」を持っているのは実はフランス人ではない、ということが露わになる。この問題の問題性はそこにある。
関係ないが、たとえばアメリカにも被曝者はいるし、韓国にもロシアにもフランスにもいるはずだ。彼らもまたそれそれの文化において「被曝者」としての烙印を押されているのだろうか?

貧困のイメージの貧困

自分の、あまり身近にない事柄についての思い込みについて、そのイメージの源泉は何なのかというのが最近気になっている。
たまたま産経にこんな記事が出ていたので、自分でもまとめ切れていないがちょっと書く。
【視線】慰安婦、つかこうへい氏の見方「歴史は優しい穏やかな目で」 阿比留瑠比
例えば「貧困」という概念。最近の話題では「性奴隷」「強制連行」でもいい。
これらの語の正しい定義は google さんなら0.20秒くらいで答えてくれるが、実際のところそれも定義にすぎない。
一方、それに先立ち、自分の中にはそれらの言葉から具体的にイメージする事柄というのはある。一定のステレオタイプ化は避けられていないだろうが、こんなもんかな、みたいな予断・先入見というのは誰もあるだろう。
一般的に自分が知っていると思っているもの、実際には身の回りにあるわけでもないのに、こういうものだというようなイメージ、それはどこから来ている? と考えると、大抵はどうもいわゆる大衆文化におけるビジュアルイメージだ。要するに映画やテレビドラマ、マンガとかアニメとかで、これは今や多くの日本人にとって同じなのではないかと思う。
*1
自分的には、現代の日本における「貧困」といった時に何をイメージするかというと、やはり昔の日本が貧しかった頃に作られた、大衆文化における図像が元になる。というかそれしかない。
たとえば巨人の星の飛雄馬の子供の頃とか、10代のころの吉永小百合とか、要するにマンガや映画で見た一連の/断片的な場面が思い浮かぶ。
で「貧困」っつたらそれ以下かな、みたいな。
でも考えてみると、オレは(幸い)貧困など経験したことがないし、このイメージもあるフィクションの断片にすぎないんだよね。
で、このような「貧困」の把握で、現在の現にある貧困についてコメントするのはやばいなとも思う。
自分も実は現代の「貧困家庭」に携帯とかパソコンがあるとか、パチンコ行ったとか、家族で焼き肉食ったとか、そういうことには正直違和感がある。
そしてそれを以て、たとえば甘えだウソだとか批判する連中がいるのもわかる。
連中の言い分もわかるというのではない。連中も自分と同じような「貧困」理解しかないのだな、というのがわかるのだ。
たとえば焼き肉なんて贅沢じゃんカネあんじゃんと思うのは、別にオレと比べてではなく、現実にあるだろう「貧困家庭」の生活と比べてでもなく、単にオレの中の貧困イメージと比べて贅沢なのだ。
だがこれはぶっちゃけて言えば、飛雄馬の姉ちゃんはその日その日のやりくりに精一杯で焼肉なんてできなかったんだぞ! みたいなレベルの批判でしかない。
よく考えれば、娯楽やちょっとの贅沢は貧乏だろうが必要だし、スマホを解約したところで貧困から抜け出せるわけでもない。
自分の中にある、高度成長前の大衆文化由来の時代錯誤で粗雑で貧困な「貧困」イメージは、いま現に貧しい人の生活がどのようなものかを理解する上での障害になるだけだ。貧乏人を描いた半世紀も前の漫画を読んだくらいで貧乏を「知った気」になっているにすぎない。

「僕は『従軍』という言葉から、鎖につながれたり殴られたり蹴られたりして犯される奴隷的な存在と思っていたけど、実態は違った。将校に恋をしてお金を貢いだり、休日に一緒に映画や喫茶店に行ったりという人間的な付き合いもあった。不勉強だったが、僕はマスコミで独り歩きしているイメージに洗脳されていた」

http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130624/plc13062413040005-n1.htm

つかは、将校と一緒に映画を見たくらいで彼女らが「奴隷的」ではないと言っている。
彼の「奴隷的」の具体的なイメージは「鎖につながれたり殴られたり蹴られたりして犯される」ことを指し、そうでないならそれは奴隷的でないと言いたいのだろう。
ちなみに「奴隷的」の定義はググれば0.2秒くらいでたどり着けるので興味のある人はやってみてくれ。つかの言うようであってもそれは奴隷的であることに変わりはない。
彼はたぶん奴隷を(文字により定義された)概念として理解しているのではなく、ビジュアルなイメージとして漠然と把握していたのではないかと思う。
団塊の世代なのでサブカルチャーなんかにも触れてるだろうし。
実際、つかの言う「奴隷」の類型的というより陳腐なイメージはほとんどマンガである。というより、彼の「奴隷」イメージもそういったジャンルから来ているような気がする。実際、そのようなイメージとして「奴隷」は大衆メディアに流通していると思う。
我々の現によく知らない事柄の表象は、サブカルチャーにおいては作家の想像力によって図像化されている。劇的な効果を演出する上での、文脈に奉仕する形で表現される記号化され変形されたフィクションだ。
で、この種のステレオタイプ化したビジュアルイメージは、たぶん漠然と継承され繰り返し再利用され一定の記号化したパターンとして定着している。
たとえば漫画表現では「金持ち」のステレオタイプ表現は花形満から進歩していない。変化させる必要がないからだ。イメージの発信・流通側にとっても受け手にとっても自分とは関係ない世界のことだから。
我々の関心や知識の欠落を、このわかりやすいイメージはいい感じで埋めてしまう。なんとなくわかったような気になる。
だがこれはフィクションだ。そしてオレの知っている「貧困」も、多分なんの根拠もない、単に劇的な演出効果だけを計画された記号的表現にすぎないかもしれない。
だがそれに気づくことはそんなに難しいことか?
つかは「奴隷」という概念について、大衆メディアで独り歩きしているイメージに洗脳されたままである事にこそ自覚的になるべきだろう。彼は従軍慰安婦について「不勉強だった」が、今は「知った気」になっているだけだ。

*1:たとえば日本のロボット産業は明らかに手塚治虫の描き出したイメージに拘束されている。ルンバみたいのは本来、日本人的には許せないようなロボット観だw

つか性欲とか言えばなんでも通るだろみたいなのやめてくんない?

最近話題の件。まあ深く関連しないけどちょっとしたポイントなので書く。
この手の話の場合に、特にこれを擁護したい側から決まり文句のように出る以下のような発言・認識がある。

戦時中の旧日本軍の慰安婦についても「意に反して慰安婦になった方は気の毒だ。それが戦争の悲劇であれば、だから戦争なんかするものではない」とする一方、「人間に、特に男に、性的な欲求を解消する策が必要なことは厳然たる事実」「世界各国を見れば、軍人の性的欲求の解消策が存在したのは事実」と重ねて主張した。

http://www.asahi.com/politics/update/0514/OSK201305140009.html


この手の理屈のバリエーションはそんなになく、要はそれは成人男性の生物学的・生理的・自然的欲求なのであって(本能と言った政治家もいたなw)、避けることができないというもの。

性欲が生物的な欲求であることは当然その通り。
だがそのような性欲が、世界史上に普遍的に見られる性暴力や性産業の原因であるというのは基本的にはマチガイである。
ちょっと考えればわかるが、そんなことをしなくても性欲を満足="落ち着かせる"ことは実に手軽に短時間に無料で安全にしかも一人でw できるからだ。
しかし単に生理的欲求を満足させるだけでは"落ち着かせる"事ができない要素があり、それが例えば性産業の存在意義になっている。では性産業は野郎どもの何を満足させようとしているのか?
それは性的な「欲望」で、生物的な欲求とは別のものだ。
欲望は社会的・文化的なもので、いわば観念的なもの。自慰や買春がしばしば「虚しい」のは、この欲望が十分には満たされないからだ。
欲望は観念的なものなので、全く必要不可欠なものではない。
一方、生理的欲求を満たすことは生存に不可欠だ。
例えば軍隊では、兵士たちの生理的な・不可欠な欲求には無償で応える。食料も休息も健康や作戦遂行に必要だからだ。
他方どこの軍隊でも性的なサービスが無料で提供されることはない。煙草や酒と同様、別に不可欠ではないからだ。ココ重要。
ではなぜ彼らはそれを不可欠であるかのように語るのか?
具体的に男の性的な欲望がどんなものかといえば、彼らの実際の性行動を見ればわかる。
現代ならば一般には「女性に対する性的行為」だ。
性産業は俗に「射精産業」といわれたりするが、実際には「射精による快」は性的欲望にとって取るに足らない要素。というか「身体的・生理的な快」自体が本質的ではない。
これは橋下のツイートにもある通りだ。彼はちゃんと分かっている

批判者は、風俗業=売春業=性行為と短絡的に考えているね。日本人は賢いから、性行為に至る前のところで、知恵をこらしたサービスの提供を法律の範囲でやっているよ。そして今の日本の現状からすれば、貧困からそこで働かざるを得ないと言う女性はほぼ皆無。皆自由意思だ。だから積極活用すれば良い。

橋下徹 on Twitter: "批判者は、風俗業=売春業=性行為と短絡的に考えているね。日本人は賢いから、性行為に至る前のところで、知恵をこらしたサービスの提供を法律の範囲でやっているよ。そして今の日本の現状からすれば、貧困からそこで働かざるを得ないと言う女性はほぼ皆無。皆自由意思だ。だから積極活用すれば良い。"


では何が「欲望」の本質か? は専門家にでも聞いてくれ。
ただ結果論として言えることは、男性のこの内的な(そうでありながら集合的な?)観念が、現実の社会に再現され、その際に対象=女性に対しある種の強制力が働いていることだ。
それは男の妄想であって、女のものじゃないのだが(彼女たちには彼女たちなりの性的欲望があるだろう)、彼女たちは「男の欲望」を現実に再現する*1
だが彼女たちにはそうする内的な必然性*2など無いのだ。にもかかわらずそうする。
結果論的には、そこにはある種の強制力があると考えるほかない。

例えばその強制力は、単純な腕力の場合もあるだろうし、もっと文化的なものかもしれない。強いられる側に被害感情を持たせるような非道なものであるとも限らない。*3
そこら辺も専門家に聞いてくれ。

問題は、「男」の側だ。現にそのような「広義の強制」が働いているにもかかわらず、それが彼の意識において問題視されない。自分に都合がいいからだが、むしろその正当化のための尤もらしい理屈が成り立っているからだ。
それは「男性の生理的な欲求」、不可避なもの・自然的なものとしての性欲、という理屈だ。
この、男性という生き物の「学術的な定義」が、全ての女性への性暴力・性的搾取は、善悪を超え、男性の責任能力さえ超えた、自然的・必然的な現象だとする無責任な主張の根拠として機能している。
だがこのりくつはおかしい。
上述の通り、これはフィクションだ。ニセ科学である。*4
だからすべての男性が悪い、と言えば今日からキミもフェミニストだが、実際のところ問題はこれが一定の傾向を持って再生産されることで、それを可能にしているのは具体的に発言されるニセ科学的な言説=プロパガンダだ。
そしてそれが意図的・目的的に行われているなら、もはや「性差別主義」という他ない。
その根底には女性蔑視があるかもしれないが、誰が誰を軽蔑しようが勝手である。その蔑視があたかも客観的な正当性のあるものであるかのように語ることこそ問題なわけだ。

:追記
実際のところ、戦場のような極限的な状況についてはよくわからないし、そのような場での性暴力はむしろ上記のようでなく、極度のストレスによる攻撃衝動のようなものなのかもしれない。
むろんそうであるなら尚更、性的なサービスが彼らの攻撃衝動の緩和に役立つとは思えない。また別の問題だからだ。

*1:強姦される者として、ツンデレな彼女として、上手に客を騙していい気持ちにさせてくれる風俗嬢としてetc.

*2:「自由意思」と言ってもいい。

*3:実際のところ、「強いられている」のは男だって同じだがな。

*4:トンデモさんは「科学的」であることを非常に好むが、これ以外にも「文化」を論拠にするタイプもおり、こちらはより厄介である。