こないだ観たキアロスタミの1994年の映画。これは彼の有名な三部作の最後の作品で、そのような観点から映画ファンたちがいろいろ難しい考察をしているが、ここではそういった作家論・作品論的な背景は完全に無視した感想になる。
単に前二作を観ていないからであるw
これはイラン映画だが、正直なところその常識や価値観が(西欧近代的な)我々と違いすぎ、単純な共感や理解が難しい。
だが本作はそれを超えて感動的である。正直、最近これほど感動した作品はあまりない。
イランは1990年の大地震で甚大な被害を被っており、この作品も「震災後」の色合いが強い。
ストーリーは、キアロスタミ本人を投影したと思われる映画監督が、イランの片田舎で素人を集めて映画を撮ろうというものだ。その作品に偶然に出演することになった若い男女の話である。
ただストーリーは監督=キアロスタミの主観で進む。監督から見た若い男女の話だ。
ホセインという若い男が、タヘレという女に求婚を受け入れてもらおうと撮影現場で苦闘する。
実は彼は過去にも彼女に求婚しており、彼女の祖母に拒絶されている。彼女は地震で両親を亡くしており、祖母が彼女の結婚に関する権限を持っているのだ。
彼は文字が読めず、持ち家もない。祖母が求婚を拒んだのはそのせいだと考えている。文字を読める孫娘とは(社会階層的に)釣り合わないのだ。
そもそも彼の求婚は我々から見たら無茶で、かつて彼女が読書している姿を見かけたというだけで求婚に至っている。
実際その時も、この撮影の時点でも、二人は直接口をきいたことがない。それで求婚である。
この時点で我々とはかなり感覚が違い共感が難しい。ただ恐らく当地での結婚とはそのようなもので、親同士が勝手に決めた相手と、お互い見ず知らずのまま結婚するのだろう。
だが彼もまた震災で両親を亡くしている。親が結婚話を持ってくる望みがなく、自力でなんとかするほか無い。彼にとって伝統的な結婚の望みは崩れ去っているのだ。それは地震のせいである。
彼はまだ彼女を諦めていない.。撮影中を通して彼女にまとわりつき、必死に彼女への愛や二人が結婚すべき理由を語り続ける。だが彼女は彼の存在を完全に無視で、一切応答しない。彼の必死の訴えは見ていて哀れなほどであるw

たぶん監督も彼を哀れに感じw、撮影の合間に話を聞いたりしている。
都会から来たインテリの映画監督に、貧しく無学な彼は自分なりの理屈を言う。彼女が自分と結婚すべき理由である。例えば家柄や階層で相手が決まるのは古い価値観だ、豊かな者と貧しい者こそ結婚すべきだとかそんなものだ。だが監督はそれをまぜっかえす。
この作品において監督=キアロスタミは、明らかにこの若い男女に現実の「震災後」の「新しい世代」を見ようとしている。映画監督が作中に入り込むという複雑な構成となっているのはそのせいだ。
大地震がイランの古い価値観や秩序を打ち壊した後、それを乗り越えようとする男女を見ている視線そのものがこの作品といっていい。
監督がホセインの「理屈」をやんわりと退けるのは、それが一般論であり、ホセインがタヘレと結婚すべき理由ではないからだ。
監督はここで、ホセインという個人がタヘレという別の個人と結ばれるべき理由が必要だと暗に言っている。彼らは伝統的秩序(の瓦解)を越えねばならず、そのために必要なのは一般論ではない。

この作品には、主人公の男女の他に、若い男女が一人ずつ出てくる。
ある若い男は、主人公の前に演技をしていた男で、結局うまく演技が出来ずに主人公と役を交代している。
彼の失敗の理由は、若い女性との会話のシーンで言葉が出ないためだ。彼は若い女性との会話の経験がなく、演技の上でもそれが支障となっている。
また監督がたまたまトラックに乗り合わせた若い女は、監督が名を聞いても一切答えない。この地方では見知らぬ男に名を教えることがタブーだからだ。監督は彼女を映画に出演させようと思ったのだが諦める。
この二人はいずれも伝統的な価値観や因習に生きている。監督/観客からすればなんでも無いようなことが、彼らには出来ない。決められた秩序や規則から外れることができないのだ。
だが主人公男女は違っている。価値観が違うというより、地震が彼らから伝統を奪ったからだ。
タヘレは我が強く、周囲の言うことを聞かない。撮影でも何度注意されてもセリフを正しく言おうとしない。
それは伝統的な因習の問題ではなく、タヘレという個人の性格の露出である。彼女は結婚相手も自分で決めるだろう。もう彼女が従うべき伝統的秩序/両親がいないからだ。
彼らは伝統から切れ、個人として振る舞おうとしていると監督は考えている。
本作のラストシーンは言いようもなく素晴らしい。
映画撮影が終わった後、一人で家路を行くタヘレをホセインが追いかける。結婚を哀願しながらすがりつくが、彼女は無視である。
広大な草原のジグザグの一本道を去ってゆく女と、追いすがる男が遠景で捉えられる。一切の人工物のない広大な自然の中に超ロングショットで撮らえられた二人の姿は豆粒より小さく、画面の奥へと遠ざかっていく。
だが突然、男が道を引き返す。彼は走り出し、一本道を外れ、草むらを突っ切ってこちら(観客/監督の視線)にむかって駆けてくる。
画面の向こうで彼と彼女に何が起こったかはわからない。
だが重要なのは、彼が道を外れたこと、真っ直ぐ監督の方に来ることだ。これが意味することは明らかである。

だがこれは単に「個人」が自分の力で愛だの結婚だのを手にしたというだけではない。
というより、広大な自然のなかで小さな点にすぎない二人の姿が、個人だの自由だのではない、もっと大きな自然の営みの些細な一部にすぎないように見える。
男女の結びつきは、個人と個人の愛を超えた何かだという気がしてくる。男女の間のあれこれも、結局は自然の摂理、人の努力を超えた運命だったのだというような。
映画の中盤、監督は調理スタッフの老人と話す場面がある。
地震で妻を亡くしたという老人に、監督は再婚を勧める。だが老人は、妻と50年連れ添って、今さら再婚など考えられないという。
老人は恐らく見合い結婚だろう。挙式の当日まで相手の顔を見たこともないというようなものだったかもしれない。恋愛関係などありもしなかったろう。
だがそのような二人でも50年連れ添ってみれば、他の相手など考えられないような関係になる。一緒になった理由など問題ではない。終わってみれば、それは当人の意思を超えてもたらされた関係だったのだ。

このような感覚、男女の出会いを当人たちの思惑を超えた運命なのだとする見方は、我々にもわからない感覚ではない。
主人公二人の顛末も、何か大きな摂理、運命の現われだったように思えてくる。
当時のイランにも近代的価値観が押し寄せていたろうし、大地震は伝統的秩序の瓦解を意識させたろう。
だがそうだとしても、そういった人間世界的な水準を超えた自然的な摂理が、人知を超えた運命が男女を結びつける。
近代だの伝統だのを越えて世界はそこにあり、人々から大切な何かが失われることはないのだ。
本作における、インテリで近代的・個人主義的な価値観を持つだろう監督のそのような視線は、我々にとっても素直に感動的である。
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