オリーブの林をぬけて(1994年)/ 運命・因習・個人・愛

こないだ観たキアロスタミの1994年の映画。これは彼の有名な三部作の最後の作品で、そのような観点から映画ファンたちがいろいろ難しい考察をしているが、ここではそういった作家論・作品論的な背景は完全に無視した感想になる。
単に前二作を観ていないからであるw

これはイラン映画だが、正直なところその常識や価値観が(西欧近代的な)我々と違いすぎ、単純な共感や理解が難しい。
だが本作はそれを超えて感動的である。正直、最近これほど感動した作品はあまりない。

 

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イランは1990年の大地震で甚大な被害を被っており、この作品も「震災後」の色合いが強い。
ストーリーは、キアロスタミ本人を投影したと思われる映画監督が、イランの片田舎で素人を集めて映画を撮ろうというものだ。その作品に偶然に出演することになった若い男女の話である。
ただストーリーは監督=キアロスタミの主観で進む。監督から見た若い男女の話だ。

 

ホセインという若い男が、タヘレという女に求婚を受け入れてもらおうと撮影現場で苦闘する。
実は彼は過去にも彼女に求婚しており、彼女の祖母に拒絶されている。彼女は地震で両親を亡くしており、祖母が彼女の結婚に関する権限を持っているのだ。
彼は文字が読めず、持ち家もない。祖母が求婚を拒んだのはそのせいだと考えている。文字を読める孫娘とは(社会階層的に)釣り合わないのだ。

 

そもそも彼の求婚は我々から見たら無茶で、かつて彼女が読書している姿を見かけたというだけで求婚に至っている。
実際その時も、この撮影の時点でも、二人は直接口をきいたことがない。それで求婚である。
この時点で我々とはかなり感覚が違い共感が難しい。ただ恐らく当地での結婚とはそのようなもので、親同士が勝手に決めた相手と、お互い見ず知らずのまま結婚するのだろう。

だが彼もまた震災で両親を亡くしている。親が結婚話を持ってくる望みがなく、自力でなんとかするほか無い。彼にとって伝統的な結婚の望みは崩れ去っているのだ。それは地震のせいである。

 

彼はまだ彼女を諦めていない.。撮影中を通して彼女にまとわりつき、必死に彼女への愛や二人が結婚すべき理由を語り続ける。だが彼女は彼の存在を完全に無視で、一切応答しない。彼の必死の訴えは見ていて哀れなほどであるw  

 

 

たぶん監督も彼を哀れに感じw、撮影の合間に話を聞いたりしている。
都会から来たインテリの映画監督に、貧しく無学な彼は自分なりの理屈を言う。彼女が自分と結婚すべき理由である。例えば家柄や階層で相手が決まるのは古い価値観だ、豊かな者と貧しい者こそ結婚すべきだとかそんなものだ。だが監督はそれをまぜっかえす。


この作品において監督=キアロスタミは、明らかにこの若い男女に現実の「震災後」の「新しい世代」を見ようとしている。映画監督が作中に入り込むという複雑な構成となっているのはそのせいだ。
大地震がイランの古い価値観や秩序を打ち壊した後、それを乗り越えようとする男女を見ている視線そのものがこの作品といっていい。
監督がホセインの「理屈」をやんわりと退けるのは、それが一般論であり、ホセインがタヘレと結婚すべき理由ではないからだ。
監督はここで、ホセインという個人がタヘレという別の個人と結ばれるべき理由が必要だと暗に言っている。彼らは伝統的秩序(の瓦解)を越えねばならず、そのために必要なのは一般論ではない。



この作品には、主人公の男女の他に、若い男女が一人ずつ出てくる。

 

ある若い男は、主人公の前に演技をしていた男で、結局うまく演技が出来ずに主人公と役を交代している。
彼の失敗の理由は、若い女性との会話のシーンで言葉が出ないためだ。彼は若い女性との会話の経験がなく、演技の上でもそれが支障となっている。

 

また監督がたまたまトラックに乗り合わせた若い女は、監督が名を聞いても一切答えない。この地方では見知らぬ男に名を教えることがタブーだからだ。監督は彼女を映画に出演させようと思ったのだが諦める。

 

この二人はいずれも伝統的な価値観や因習に生きている。監督/観客からすればなんでも無いようなことが、彼らには出来ない。決められた秩序や規則から外れることができないのだ。

だが主人公男女は違っている。価値観が違うというより、地震が彼らから伝統を奪ったからだ。
タヘレは我が強く、周囲の言うことを聞かない。撮影でも何度注意されてもセリフを正しく言おうとしない。
それは伝統的な因習の問題ではなく、タヘレという個人の性格の露出である。彼女は結婚相手も自分で決めるだろう。もう彼女が従うべき伝統的秩序/両親がいないからだ。

彼らは伝統から切れ、個人として振る舞おうとしていると監督は考えている。

 

 

本作のラストシーンは言いようもなく素晴らしい。
映画撮影が終わった後、一人で家路を行くタヘレをホセインが追いかける。結婚を哀願しながらすがりつくが、彼女は無視である。
広大な草原のジグザグの一本道を去ってゆく女と、追いすがる男が遠景で捉えられる。一切の人工物のない広大な自然の中に超ロングショットで撮らえられた二人の姿は豆粒より小さく、画面の奥へと遠ざかっていく。
だが突然、男が道を引き返す。彼は走り出し、一本道を外れ、草むらを突っ切ってこちら(観客/監督の視線)にむかって駆けてくる。

 

画面の向こうで彼と彼女に何が起こったかはわからない。
だが重要なのは、彼が道を外れたこと、真っ直ぐ監督の方に来ることだ。これが意味することは明らかである。

 

だがこれは単に「個人」が自分の力で愛だの結婚だのを手にしたというだけではない。
というより、広大な自然のなかで小さな点にすぎない二人の姿が、個人だの自由だのではない、もっと大きな自然の営みの些細な一部にすぎないように見える。
男女の結びつきは、個人と個人の愛を超えた何かだという気がしてくる。男女の間のあれこれも、結局は自然の摂理、人の努力を超えた運命だったのだというような。

 

映画の中盤、監督は調理スタッフの老人と話す場面がある。
地震で妻を亡くしたという老人に、監督は再婚を勧める。だが老人は、妻と50年連れ添って、今さら再婚など考えられないという。
老人は恐らく見合い結婚だろう。挙式の当日まで相手の顔を見たこともないというようなものだったかもしれない。恋愛関係などありもしなかったろう。
だがそのような二人でも50年連れ添ってみれば、他の相手など考えられないような関係になる。一緒になった理由など問題ではない。終わってみれば、それは当人の意思を超えてもたらされた関係だったのだ。


このような感覚、男女の出会いを当人たちの思惑を超えた運命なのだとする見方は、我々にもわからない感覚ではない。
主人公二人の顛末も、何か大きな摂理、運命の現われだったように思えてくる。

 

当時のイランにも近代的価値観が押し寄せていたろうし、大地震は伝統的秩序の瓦解を意識させたろう。
だがそうだとしても、そういった人間世界的な水準を超えた自然的な摂理が、人知を超えた運命が男女を結びつける。
近代だの伝統だのを越えて世界はそこにあり、人々から大切な何かが失われることはないのだ。
本作における、インテリで近代的・個人主義的な価値観を持つだろう監督のそのような視線は、我々にとっても素直に感動的である。

 

 

映画「炎628」1985年 / 過ぎ去らない過去

こないだ観に行ったのが1985年の映画「炎528」で、共産主義体制下のソビエトの映画。戦争映画・反戦映画としては名高いもので、一部では有名な作品でもある。
いかにもソビエト的なガチさというか社会主義リアリズムというでもいうのか、リアリズム以前にこれ本物だろオイ、ガチじゃねーかみたいな感じでメンタルをとことん削られる。


この衝撃的な作品についてはすでに多く語られているので特に付け加えることはない。レビューを探せばいくらでもその戦慄すべき映画体験を見つけることができるだろう。以下も作品自体の感想だの批評だのではない。

 

 

この作品は独ソ戦での現にあった住民虐殺事件をベースにした作品だ。
特徴的なのは、一貫して主人公の少年目線で描かれることで、観客も彼が見るものを見ることになる。
特に主人公がパルチザンとして実際に戦争に関わってからは、観客の体験も変わる。主人公が(恐らく爆発音によって)鼓膜が破れたと思しきタイミングで映画の音声も不明瞭になり、観客がスクリーン上に目にする映像の質感も変わってくる。
主人公が実際に体験している事を観客も体験することになる。

 

特に作品後半、ナチスの襲撃が始まってからの観客の体験は圧倒的である。
主人公はドイツ軍の暴力の前になすすべがない、その無惨な殺戮をただ見るほか無い立場に留め置かれ、同時に観客もまたそれをただなすすべなく「見せられる」立場に追い込まれる。嫌も応もなく、目をそらすことが許されない強制力に晒されるのだ。
実際に映されている殺戮ではなく、それを「見せられる」という経験こそがこの作品における暴力の体験である。

 

映画は視覚のメディアであり、それはたいていの場合、直接的な体験の全体性からは保護されているが(結局観客は映画館のイスに座っているだけなのだ)、この作品では、主人公の体験がまさに見るだけ/見せられるだけであるという一点で、観客もまた主人公と何ら変わらない立場に追い詰められる。まるで現実とフィションとを隔てる壁が取り払われたかのような感覚に襲われる。主人公と同じ体験をさせられていると感じるのだ。
実は我々は映画を見ているのではない、見させられているのだという、映画館という装置の特性が観客を凄惨な殺戮の現場に縛り付ける。

プロパガンダについて

本作は共産体制下のソビエトの作品ということで、普通にプロパガンダ映画だろと疑われて仕方ないものだろう。
実際その要素はあるが、正直なところあまり色濃い政治宣伝は無いと言っていい。少なくともこの作品の価値を損なうようなことはない。
それでもロシアが戦争をしている現在、本作のプロパガンダとしての側面を指摘する意味はある。

 

本作において、主人公の集落(白ロシア=現在のベラルーシ)を襲撃してきた「ナチスドイツ」は、史実においては必ずしもドイツ人ではなく、ウクライナ人であったからだ。
ウクライナ人の武装化した反ソビエト・反ユダヤ勢力がドイツ軍に組み込まれ、あるいはドイツ軍と共同で、本作のような戦争犯罪をソビエト領内で繰り返している。
(本作のタイトル「炎628」は、ここで描かれたような村落での住民虐殺が628箇所で行われたという意味だ)

 

つまりこの作品のプロパガンダ要素は、反ナチ宣伝でも共産主義宣伝でもなく、ウクライナ(当時はソビエト連邦の一部)の犯罪の隠蔽だ。
自国民の行った戦争犯罪をドイツ人の仕業であるかのように描いている。
ここではウクライナ人の存在は消去され、一律にナチスドイツの犯罪としている。
(むろん628の殺戮の全てをウクライナ人がやったわけではない。多くはドイツ軍によるものだったろう。ただ本作のモデルとなった事件はウクライナ人部隊によるものだ)

 

この作品において、ソビエトに都合の悪い事実が隠蔽されている。真の加害者が消されているのだ。それはこの作品だからというより、それがソビエトの「公式な歴史」だったのだろう。そもそもがこの反ソ勢力の存在自体が、ソビエトのウクライナへの圧迫が原因である。
だがこの歴史修正は、歴史修正主義者が一つ憶えのように言う「国民の自尊心」だのというだけでは済まない。被害者は憶えているからだ。いくら歴史から消そうが、それで人々の記憶が消えるわけではない。

 

プーチンは現在の戦争を始める際に、「ウクライナのネオナチ勢力」を問題にしている。だがゼレンスキーはユダヤ系であり、ナチスなどとは言いがかりも甚だしいと我々は考える。
しかし恐らく、ロシア/東欧の人々は、ウクライナ人がナチスドイツと一緒になって本作のような虐殺行為を行った事実を今も憶えている。
ソビエトのプロパガンダが表向きなんと言おうが、現にそれを経験した被害者たちは、それがドイツ人ではなくウクライナ人だったと知っている。そしてその罪が「嘘」で隠され全く問われずにいたことも。
だからプーチンの言葉が「響く」。ウクライナをナチスと名指し、罰しようとしているからだ。
ひょっとしたらロシア人に心理の深い部分で、今そういうことが起こっているのかもしれない。

 

歴史修正とポピュリズム

事実が隠されることによって、真の加害者が裁かれず、免責されている。

だがそれによって真に抑圧されるのは被害者である。

加害者が罰されず、被害が償われない。そうである限り「被害」は被害者にとっていつまでも「現在の問題」であり続ける。事件が終わらないのだ。
80年以上前の虐殺が、今も人々の怒りにリアルに火をつけることが出来る。

 

歴史の隠蔽が却って事実を風化させない、そういう例はいくらも目にする。
それは別にソビエトだからとか独裁国家だからということでもない。
もう40年も前の天安門事件に今も中国政府が神経を尖らせるのも、歴史の隠蔽により事件がいつまでも風化しないからだ。
沖縄の住民に自決を迫ったのは日本軍であって、住民の自発的な行動などではなかったと認められねば、それは沖縄の住民に「現在の問題」としてのしかかり続ける。
この種の歴史修正はどこにもあるし、過去の話でもない。

 

いや待て待てそもそもこのウクライナの「嘘」はソビエトのものじゃねえか何でプーチンがそれを暴いて得意げなんだよ、みたいな気もするが、それはポピュリズムということなのかもしれない。
彼は表向き汎スラブだの言い、ロシアとウクライナの一体性を強調するが、同時に、いわば人々の「本音」の代弁者として、ウクライナをナチスと名指し攻撃する。
キレイな建前をシレっと口にした上で、それと矛盾する本音を臆面もなく言い立てる姿勢は、最近の西側民主国家における極右排外主義者のようだが、プーチンもまた現在的なポピュリストの一面があることの現れかもしれない。
現在的なというのは、「歴史修正」だろうが「真の歴史」だろうが別にどうでもいい事だ、というポスト・トゥルースを彼も生きているという意味だ。もはやイデオロギーだのプロパガンダだのは、どうでもいいことなのだ。

 

「ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論」(2018年)

数年前にちょっと話題になったのを読んだ。
当時のSNSで「ブルシット・ジョブ」は、業務のうちの無駄な部分、慣習的・形式的で実質的に不要な部分、みたいな取り上げられ方をしていた。    
要するに効率化や合理化、生産性の観点で語られている。意識高い効率厨が古臭いビジネス慣行を馬鹿にするみたいな文脈だった気がする。

 

 

だが実際に本書を読んでみると全くそういう概念ではないとわかる。
そもそもビジネス書の類でもなく、むしろほぼほぼ経済人類学的な思想・哲学書といっていい(著者は人類学者だ)。しかも300ページを超える大部なので、当時のオマエラこれ途中で投げ出して勝手に想像で語ってたろwという感じである。
本書は広範な射程と複数の論点を持つかなりトータルな論考なのだが、個人的にいくつか興味深かった点を拾ってみる。

何も生産しない仕事

ここでいうブルシット・ジョブ(以下BJ)は個々の業務の非効率ではなく、ある業態、部門全体を指している。最近の日本での文脈で言えばいわゆる「中抜き」や「人材派遣業」に近い。
典型的には電通がやってる、役所から仕事を受けそれを個別企業に再委託するような業態、あるいは企業内であれば中間管理業務だ。
著者のグレーバーは、これらは直接的な価値生産を行わず、究極的には無くていい仕事だとする。
(また生産技術の発展により無くせるとも言っている )

 

BJに関して彼がまず問題とするのは労働者のメンタルヘルスだ。
BJに従事する労働者の多くは、自分の仕事に社会的意義が皆無であると自覚しており、その「やりがいのなさ」にメンタルをやられる。
誰もが自分の仕事には、人生の多くの時間を費やす価値があると思いたいが、BJはそうではないことが明らかだからだ。

エッセンシャルワーカーの低賃金の原因

BJは中間管理業務で、すなわちホワイトカラー層だ。一方その対極がブルーカラー層で、彼らの労働は現実社会に不可欠で、役に立つ、価値のある仕事だ。だからBJではない。
だがそうであるにもかからわず、今やエッセンシャルワーカーと呼ばれる彼らの労働待遇は劣悪で、社会的評価も低い。誰もが不思議に思うこの現象を、彼は以下のように説明する。

 

エッセンシャルワーカー達は既に十分価値のある仕事をしており、それ以上に(金銭的に)報われる必要がない。
一方で中間管理職達は、全く無駄で無意味なBJに人生を浪費しており、この苦痛の対価が彼らの高賃金の理由だ。

 

この議論でわかるように、著者にあるのはあくまで西欧社会における形而上学的な問題意識だ。
社会的意義の乏しい仕事に苦悩し、役に立つ仕事はそれ自体が報酬(=恩寵?)だとの感覚は、明らかにキリスト教/ピューリタン的な労働倫理である。日本で中抜き業者が罪悪感からメンタルやられるなんて話は聞いたことがないw

 

だからウチラとは関係ない、ということもない。
著者はこの中間業務が時代を下るごとに肥大化し、賃金も上がり続けていることを統計的に示す。他方でエッセンシャルワークはいっそう人手不足で低賃金になっている。それは日本でも起こっていることだ。

資本主義の形骸

そうは言っても民間企業は市場競争に晒されており、無駄な人員を抱える理由がないはずだ。
だが現実にこのセクションは人数が増え、賃金も上がっている。それは(米国)社会全体でも同じで、実質的に何も生産してない業界が多くの人員を高い給料で雇っている。(著者はBJの概念をかなり広く用いており、広告・広報や投資銀行、弁護士さえ含む場合がある)

 

著者はこの理由について、やはり西欧社会の精神分析的な診断を下す。
例えばホワイトカラーが自分を大きく見せたいとの欲望、およびエッセンシャルワーカーへの「やっかみ」に原因があるという。
詳細は省くが、要するにホワイトカラー達の「価値のある」「役に立つ」仕事へのルサンチマンが原因だとする。

 

だが管理層の肥大化・高給化とエッセンシャルワーカーの冷遇は東洋でも起こっている。
むしろウチラ日本人には、本書による「封建制」なる説明の方が腑に落ちる。

 

現代社会において大企業の収益が実質的に、商品市場からではなく政府部門から得られるものとなっているのだ。
大企業に対して政府が与える補助金と制度的特権(法人税減税や労働規制緩和)が、実質的にその企業の富の源泉になっている。
企業に無駄な部門と無駄な人員がこんなに増えたのは、政府への「請求額」を最大化するためだ。形だけ存在しているにすぎないBJは、その請求額を正当化するためにだけ存在している。

 

これは興味深い指摘と言っていい。今や企業は価値生産によってではなく、公的資金によって存在している。
それはすなわち「封建制」的な再分配である。これはもはや資本主義でも市場競争でもない。かといって政治が経済を管理する社会主義でもない。むしろ経済が政治を買収した結果である。企業が、政治を動かして国民の富を(税のカタチで)収奪している。

 

実際この観点では、資本主義的「生産」は生産性が悪いのだ。利益率が低い。公金をそのままチューチューしたほうがいいに決まってるw
ブルーカラー部門が縮小される理由である。

労働から解放されるとは?

著者はこの後、BJは一掃できると主張する。
かつてケインズは生産技術の発展で21世紀には週15時間労働が実現すると予言したが、それは正しいと言う。既にできるはずなのだ。
だが資本家のみならず労働者までもがBJをデッチ上げ、むりやり労働時間を引き伸ばしている。

 

それは私たち自身が「働かない事」に拒否感を持つからだ。
洋の東西を問わず、我々は「労働」を道徳的価値としている。だからこそ労働時間の全般的な削減は、社会に道徳的退廃をもたらしかねない。それは現実には治安の悪化として現れるだろう。
ベーシックインカムが(計算上可能であるのに)制度として成り立ちそうにないのも、ヒマになった連中が何をしでかすかわからないという不安を拭えないからだ。

 

BJが存在するのは物質的な必要性が理由ではない。人は「より良く生きる意味」として生産労働を必要としているからだ。
ならば生産動労とは別の道徳的基準を持てれば、不要な労働=BJから解放されるはずだ。
だが著者は思弁的・哲学的な水準でしかその可能性を言わない。人々の価値観を根本から変える、そんなことは簡単にはできない。

 

2018年(邦訳は2020年)出版の本作には出てこないが、ここ数年のAIの爆発的な発展で、単に書類をやり取りするだけの中間管理業務を本当に駆逐するかもしれない事態になっている。
テック業界のサイコパスめいたCEOたちが、道徳の危機など歯牙にもかけず、社会を心理的恐慌に陥れることなどものともせずに、生産効率を追い求め労働者を大量に解雇し初めているからだ。
彼らはもともと大量解雇が趣味みたいな連中だったが、今はAIが恰好の口実になってる。(著者もテック業界はBJではないかもしれないと示唆している。競争を勝ち抜くため効率的な価値生産を追い求めているからだ。)


だが生産労働から疎外された大量のホワイトカラー労働者(失業者)が、道徳的な拠り所もないままに路上に放り出される事になったら?

AIとロボットによって労働から駆逐された我々が「働かない」ことに適応していけるか、再び無意味で不必要なBJを見つけ出すだろうか?
AIが極度に生産性を向上させると、BJの無意味さは更に極端なものになりそうではある。それはそれで人々の心理を本格的に蝕むかもしれない。

 

映画「欲望の翼」1990年/翳りゆく香港

ウォン・カーウァイの映画は好きで多く観ていたが、初期の「欲望の翼」は観ていなかった。それが先日たまたま機会があったので観た。
いやーイイわ(笑

 

彼のスタイルの出発点とされているが、実際、後のカーウァイ作品にみられる特徴がほぼ揃っている。
公開は1990年だが、作品の舞台は60年代の香港。若い男女の互いにすがるような愛と空虚なすれ違いが描かれる。。。
要するにいつものウォン・カーウァイである。

 

欲望の翼

欲望の翼

  • レスリー・チャン
Amazon

 

いつものウォン・カーウァイと言ったが、90年代当時から彼の作品には独特の印象があり、なんというかおとぎ話のようなのだ。
これは最初からの印象で、それは令和の今になってこの初期作品を観てみても同じである。

 

実際、彼の人工的な画面が映し出す範囲の狭さ、射程の小ささや近さは、ほとんど閉塞的なほどである。
しばしば形容される彼の作品の「スタイリッシュ」さが、実際に映しているのはそういう狭い世界だ。(クリストファー・ドイルとのコンビはこれが初)
だがより強く感じるのは、その無時間性というか、未来が開かれているという感じの無さだ。同じようなトーンの画面が延々と繰り返され、まるでいつになっても明日が来ないかのように。

 

 

主人公のヨディ(レスリー・チャン)は豊かな生活をしているものの生活は全く空虚である。
二人の女に手を出しては捨てるといういい加減な男だが(最初の女であるマギー・チャンの美しさは素晴らしい)、彼の満たされなさは自分が実の親を知らない養子であるせいだ。彼の養母も単にカネのために彼を育てただけの、親の愛情とは程遠い存在である。

 

二人の女もそれぞれに何らかの欠落を埋めるように、捨てられてもなお主人公にすがりつくが、報われない。
捨てられたマギー・チャンと、それを見ていた警官(アンディ・ラウ)のエピソードも素晴らしいが、警官も含めたこの4人はそれぞれの気持ちが全く誰にも通じない。

 

主人公は最後には実母がいるフィリピンに向かうものの、結局そこで何が得られるわけでもない。
二番目に捨てられた女(カリーナ・ラウ)が彼を追ってフィリピンに向かうが、彼には全く会えずじまいである。

 

 

この作品は「青春群像」などと形容されているが、実際、主に描かれていることは、若い主人公たちがその出自の不確かさ、将来の見通せなさ、現在の手応えのなさに苦悩する姿である。
若い時代に特有の不全感、焦燥や閉塞感が暗いトーンの画面に表現されている。
そしてそれは(中国返還を目前に控えた)香港という場所そのものの姿でもある。

 

実際、この作品はあるアレゴリーとして語られているとみていい。
主人公の過去と未来と現在がテーマとなっているにもかかわらず、主人公はそのすべてを見つけられず終わる。
まるで最初から終わっていた話のように。おとぎ話といったが、むしろ寓話的である。(というかそもそも原題が「阿飛正伝」だ)

 

それがはっきりするのが有名なラストシーンだ。
突然それまでのストーリーとは何の関係もない人物(トニー・レオン)が画面に現れ、てきぱきと身支度を整える姿が映し出され、意味もわからず映画は終わる。

 

 

監督自身はこのシーンについて、わかるようなわからないような説明しかしていない。
たが明らかにそれまでのストーリーが、一般的な劇映画の語りの水準とは違う語りだったと示すシーンだ。
劇中劇のような、あるフィクションの中で語られた別のフィクションであったことが示唆されている。
この二重の隔離が、4人のエピソードをなにか観念的に、寓話的にしている。

 

この作品で語られるのは、いずれも小さな、匿名的なエピソードの断片の寄せ集めにすぎない。
過去も未来も無いような1990年代の香港において、若者の一貫した成長や希望のストーリーなど語れようも無い。

 

「未来が既に決められている」事実が、時間の感覚の喪失と、起こる出来事の無意味化、個々人の無名化をもたらしている。
監督には明らかにその意識がある。
だからこそ彼の登場人物はしばしば無駄に具体的な日付や時刻、数字に意味を持たせようとする。

 

彼らの/香港の自由で豊かな現在が、時間の止まったおとぎ話のように、まるで一瞬だけ輝き消える青春のように見える。
だが、その後の香港を知っている現在において見てみると、ここにおける喪失の予感は痛切である。
というか「予感」も何も、そうなることは最初から決まっていたのだ。動かせない未来が現在を押しつぶしていく、そういう状況が描かれている。
未来のない者にとって若さとは何だろう。