ガザの怪物/民主主義の悪魔

我々はついこの間まで、何故ああも「民主主義」を信じてきたのだろうか? 実際のところ大した根拠も無くだ。
よく思い出してみれば、歴史的には民主国家だって随分なことをやってきているし、それを我々は知っていたはずだ。
(最近、キッシンジャーの名が思い出される機会があった。まるで悪い冗談のようだ)


1981年に旧ソビエトアフガニスタンに侵攻したことは、当時の日本社会の特定の文脈において、けっこう大きなインパクトを持つ事件だったようだ。いわゆる左翼勢力に思想的な打撃を与えている。

すでに大抵の左翼シンパは現実にある社会主義/共産主義国家に対してかなりの不信感を持っていたし、実際そういった国々やその指導部がロクな事していないってことは誰もが知っていた。
それでもまだ漠然と左翼思想への一定の信頼は生きていたし、広い意味でのカルチャーとしての左翼思想も残っていた。それがかなりの打撃を受けている。
実際、この時期に事実上「転向」したとみなしていい人たちは(そうと表明したかは別に)著名人にも結構いる。

近代日本社会/文化に左翼思想がもたらした影響は幅広いが、この時それがトータルに魅力を減じたと言っていいかもしれない。
これば別に日本に固有のことでもなく、当時の左翼的カルチャーの本格的な退潮は世界的なものだ。


そんな昔のことを持ち出したのは、今ガザで起こっていることを見ているからだ。
それと似たことが起こっていると感じている。

 

イスラエルが今ガザでやっていることは、それを民主国家が民主的にやっているという意味で、「民主主義」「普遍的人権」を信奉してきた者たちにとってスキャンダルだと言っていい。
共産主義がそうであったように民主主義もまた、平然と人々の生命や尊厳を踏みにじり、国際的な法や秩序を破壊することにためらいがないものだ、という事を見せつけられている。

ネタニヤフの支持率はひどいものだが、イスラエル軍のガザでの振る舞い自体はイスラエル有権者に強く支持されている。
イスラエルは自由な国で、(ロシアのように)戦場の実態が国民に隠蔽されているわけではない。そこで何が起こっているかを知った上で、民意がそれを支持している。
民主主義国家は、現実にそのようなことが可能なのだ。

 

これは世界史的な事件だという気がしている。
古代ギリシャ以来、究極の統治形態とされてきた「民主主義」が、それが実現するはずの価値が、本格的に疑われ、もう元に戻らないような事件であるように思う。
このことの(政治思想的な)影響は、世紀を超えて続く気がする。

フランス革命が約束した価値、人権だの平等だの自由だのは、基本的には常に(西欧的な)民主主義とセットで語られてきた。
共産主義の失墜以降、民主主義こそがそこに至る唯一の道とみなされたし、現代における民主主義の特別な地位はそれが理由だった。

 

だが今ガザで起こっていることが語るのは、民主主義は特段なにも約束などしていなかったということだ。

西側諸国は相変わらずイスラエルの立場を支持しているが、イスラエルを擁護するマトモなロジックを言えなくなっている。
アメリカやドイツの繰り出すイスラエル擁護の声明は、聞いてる方が情けなくなるようなものだ。
これはいわばイスラエルにおいて民主主義のある本性が現れているのだと考えるに十分である。

 

たぶんこの問題ののち、本格的に「転向者」が出る。
(西欧型の?)民主主義を捨て去る/目指さないと堂々と公言する国が出るような気がする。
民主主義を目指すべき歴史的、道徳的必然性などどこにもなくなったと。
それはもう戻らない歴史の歯車かもしれない。

 

実のところ、それは本当に最悪の政治形態にすぎなかったのかもしれない。その他すべてと全く同じように。
なら中国の言うことにもっと耳を傾けてみようという態度ももっともだというほかない。そしてそれは(ある意味で西側諸国には悪いことに)人道主義的な社会を目指さないという意味ではないかもしれない。

 

 

だが問題はそんな彼らではなく、我々「民主主義陣営」自身である。
ここ100年近くの間、民主主義はそれ自体というより、例えば共産主義/全体主義への対抗概念として価値付けられてきた。要するに政治スローガン化されてきている。
そういう意味では、敵がいなくなればその内実に疑いの目が向けられるのは当然で、そのような疑いは「権威主義国家」などより民主主義国家において現れるだろうし、実際現れている。

 

むろん日本国内においても既にそうだと言っていい。それは別に自民党がどうだとかポリコレ棒がどうだということではない。
ただいわば「ガチな民主主義者」は「生暖かく」見られるようになっている。

10年以上前だったと思うが、国内の人文系学者を含む人文クラスタはてなもそうだw)で「民主的に民主主義を否定しうるか」が話題になったことがある。大阪維新の会ポピュリズムかどうかみたいな文脈だったと思う。

そういうのの常でグダグダで終わったと思うが(挙げ句の果てにAKB総選挙こそ民主主義みたいなバカげた方向に流れていったがw)、国内的な政治状況とは別に、このような問題意識が「民主主義」そのものへの懐疑から始まっているのは確かだ。

つまり民主主義をその起源・根本原理において考える必要性を感じる人々がいたのだと思う。
(ならばプラトンアリストテレスから考えるべきだろうが、我々の教養にはせいぜいAKBしかなかったのだw)

 

そして多分その必要性は今も変わっていない。
ガザを見ればそれは明らかで、このあからさまな民主主義理念の危機に、そんなことは知っていたとでもいうような顔で不正義をアイロニカルに合理化するのではなく、その理念を「ガチに」擁護する論理を誰かが責任を持って語らなければならい時が来ているような気がする。(そしてもう誰もそれを出来なくなっているような気も)

 

イスラエルユダヤ国家は、人類の野蛮と悲惨が過去のものとなる希望のように誕生したが、気付いたときには凶悪なモンスターに育っていた。

彼らが実際のところ手に負えない悪党だということは、だいぶ前から明らかだった。
イスラエルは近代的で自由な民主国家だが、西側の同盟国として、価値観を共有する民主主義国家として、我々が不問に伏してきた悪が、見まいとして目を背けていた怪物が、ガザに現れている。

 

 

そして問題は、我々がイスラエルを批判できないことだ。
単に政治的、地政力学的な理由からというより、すでに我々自身が「民主主義」がもたらすとされた価値、その理念を信じていないからだ。
自国民を守るために他者を予防的に殺す、まだ起こっていない犯罪を罰する、我々はそれを否認する理屈を言えない。

 

ある意味でイスラエルは、我々民主社会の市民が抱き始めていた民主主義理念への不信や疑念が、具体的な形をとったヴィランのようなものだ。
いま我々が見ているのは、我々民主主義者のダークサイドの現前といってもいい。人権や自由への不信感が形を持って(しかも武器まで持って)現れている。
他者への徹底した不寛容が、分かちがたく深く民主制と結びついている姿だ。

 

いくら口を極めてハマスを罵ろうが、この怪物を生んだのは権威主義体制でもイスラム原理主義でもなかった。
そして今我々の手元にあるのは、実質的な意味を喪失し誰もその価値を信じようとしない民主主義なる形骸だけである。