日本の中心でアイを叫ぶ

以下は便宜的に(わかりやすいので)ネトウヨ、というか国士様を例に挙げるが、別に彼らに限った話じゃない。今更な感じもするが、意外と言われていないような気もするので。
しばしばサヨクは、国士達の依拠する(ように見える)「日本」なるものの歴史性を指摘する。それは実際のところかなり最近になって人為的に作られた概念で、いわゆる日本の伝統とか心とか精神とかは、国士様が思っているようには何かの「正統性」を証明しないし、むしろ逆である、というわけだ。
サヨクがこのような物言いを好んでするのは、それによりネトウヨの思想なるものの底の浅さと欺瞞を指摘したいためと思われるが、実際のところ、ある程度に情報強者な国士様たちは多分そんなことは百も承知で、承知した上で「日本の伝統」とか言っていると思う。
サヨはそういう歴史的な事実を指摘することでネトウヨをギャフンといわせたい(あわよくば啓蒙したい)のだろうが、多分徒労である。
では彼らの言う「日本」とは何だろう?
基本的には彼らの妄想の中にあるものだが、ここで取り扱うのはその妄想のあり方である。
自己責任論に典型的に現れるのだが、いわゆる普遍的概念としての人権/基本的人権が彼らにおいてしばしば軽視というか、制限され得るものであるとされる。
それはそれとして立場であると思う。ただ実際、彼らが"人権"を本当に軽視しているわけではない。
彼らが端的に擁護すべきであと主張する権利に、自由権=「個人の自由」がある。彼らにおいて基本的人権(というか所与の・普遍的価値)とはどうやら「表現の自由」・「思想信条の自由」等を意味するのみであるらしいと思えるケースは多い。
彼らの(しばしば社会通念と反する)主張・思想が"正当"なのは、それが内心の自由に基づくゆえである。それだけで何でも全面的にOKってことになる。
実際、彼らの思想/主張に対する批判さえこの自由=権利の侵害として語られる。(彼らの好きな言葉で言えば「言論の封殺」である)
逆に、一般に基本的人権とされるものの、彼らが必ずしも価値を見出さないものもある。端的には生存権で、個人が国家に対して請求する権利一般といってもいい。個人にそのような権利は無く、自己の責任においてまかなうべきものだとする。
これは彼らにおいて国家間レベルにまで妥当する考え方のようで、例えば中国が日本に文句を言うのは何であれ「内政干渉」で、つまり「内心の自由」の侵害である。
一方で植民地支配は(いわば生存権の問題なので)権利の侵害とはみなされず、むしろ自己責任である。
そう考えると面白いのは日本が中国に文句を言う場合で(あまり無いが)、それは個人の表現の自由である。言われた中国にとっては人権侵害だが、言った方にはなんらの不当性もない。
言うことと言われることは同時に必然的に起こるはずだが、権利の侵害は主観的にしか存在せず、相互の関係により構造的に起こることとはされない。
つまり加害者はいなくても主観的な被害者はいるという構図で、遠まわしに植民地支配の正当化に使われたりする。
内政干渉」は主観的にしか存在せず、したがって中国からの"干渉"の場合、中国が干渉することそれ自体が問題なのではなく、そのような被害感情を持たざるを得ない立場におかれることが問題である。
この立場・感情を強いたのが中国なら、これが内心の自由の侵害である。と言えば、中国は当然そのつもりは無いと反論するだろうが、そもそも言わないので事実上欠席裁判で中国に有罪判決が下る。
実際、彼らは非常にしばしば内向きである。外部との交渉・連絡の回路/理路が無く、その発想も無い。外部との関係が無いのだ。
国士様を例に挙げているのはわかりやすいからで、彼らに特有の傾向とは思わない。ちょっと前の児ポ・エロゲの件で、「内心・表現の自由」を上のように用いていた"擁護派"だっていた)

個人の「自由」の普遍性こそ実際には歴史的なものだが、にもかかわらず歴史を超えて普遍的である。彼らにおいて"日本"もそうだ。
むしろ彼らにとって"日本"とは、個人の「内心の自由」の範疇にある。歴史的経緯は関係ない。だからインテリジェント・デザインなんかも入り込む。非科学/科学の問題ではなく個人の自由の問題なのだ。
要は私がセカイの中心で日本を(あるいは私を)叫んでいるに過ぎない。
だが、それは私の自由意志ではない。私と日本は、「自由」に先立ち、「自由」という普遍性を歴史上において可能にするようなアクロバットにより一挙に生み出されたもので、本質的に同一である。
もう自分でも何を言っているかわからなくなってきたが、私と日本に本質的な差異は無い。
私(の自由)と日本は誕生と同時に普遍的、もっと言えばそれは個人の"不可侵の権利"の現前なのであって、それゆえにこそ彼らの"国民国家"は普遍の価値を持っている。
この日本を(例えば歴史的事実などという言葉で)批判することは出来ない。それは普遍的価値=個人の内心の自由の侵害である。
彼らが生存権一般を忌避するのは、生存権が国家に対する請求権であるからで、今や国家と限りなく同一である彼らに対する請求とはつまり、彼らの内心の自由の侵害だからだ。(要するに彼らの告発する抑圧/権利侵害は全て内政干渉と同じ型である)
実際、社会保障制度を"自分が搾取される"ことのように語るタイプはいる。自分の権利が制限/侵害されることだと感じるのだろうが、それは別にネトウヨに限らない。
国家を外部化/対象化できないために、生存権を"私"の「自由/権利の侵害」としか把握できず、(新)自由主義者・自己責任原理主義者になる。
そもそも彼らの"国家"だって、彼らの自己責任において、その内側でのみ語られている。それは「全ては個人の内面に由来/帰責する」ということだ。ある意味恐るべきポモ。*1

これをどう見るべきだろう? (自分の)自由権を言うばかりで(他者の)生存権を否認している。
生存権を自分の問題として考えなくてすむような環境にいるということか、あとは多分外部との連絡/コミュニケーションを断ったことが原因で、日本の文化結合症候群などといわれるものを思わないでもない。

*1:ネトウヨの新しさは多分こんなところにある。