なんか大量にブコメがついているエントリ。ただ、単に一人の人間の人間性の伺えるエピソードとして面白いが、それ以上ではないようにも思う。くだらない雑務を手早く片付けるライフハックのようでもあるが、はてブであんなに絶賛される理由は良くわからない。
これはよい機会なんだ。お互いネガティブに騒ぐのではなくお互いの言い分に耳を傾けることにしよう。と。
犬も歩けば どこかにあたる:オバマの問題解決能力
そして最後に、教授と警察官をホワイトハウスに招いて、3人でビールでも飲みながら話そうと提案したことを明かした。
ただ当然「これが日本(麻生)だったら・・・」みたいなコメントも多く、どうせマスゴミwが足を引っ張って云々、、というのも考えてみれば同様に面白いと思う。
実際、同じことを麻生がしたら、ちょっと待てコラ真面目にやれ、だろう。
オバマがそのような態度を取ったのは、多分、彼のコメントから引き起こされた騒動が、現にある「人種問題」に何の寄与もしないだろうという意識が、マスコミ含め一般に共有されていたからだろう。
オバマのstupid発言があり、それに対して吹き上がる人がいて、しかしオバマもメディアも(多分多くの市民も)、それを生暖かい目で見ている。人種問題とはそのようなことを問題にすることではないからだ。
だからこの提案は要するに「バカはほっといて酒でも飲もう」というに過ぎない。そこにオバマの人間性を見ることは可能でも、大層な「問題解決能力」を見ることはできそうにない。取り上げるべき「問題」などそこに無いからだ。
強いて言えば酒飲んで談笑するだけで氷解する程度の問題があるだけで、みんなで一緒に「バカはスルー」がこの種の無内容な問題の解決だとは言える。
むしろオバマにおいて優れていたのは、このバカ騒ぎを単にバカ騒ぎに過ぎないと端的に表現してみせるプレゼンテーション能力だ、と言った方がいい。
無論オバマやメディアのこの態度は、「人種問題」が社会的にシリアスな問題であるとの共通した認識がベースになっている。あるいは人種問題について社会的な責任を持って語り/考えざるを得ない事情が背後にある。だからこそ、そうでない問題を弁別できる(せざるを得ない?)わけだ。
では麻生では? だがこれはそんな問い自体がほとんど無意味だ。日本にも「問題」など無いからだ。
日本にも民族/人種問題はあるが、それが社会問題として前景化していない。いわば社会に共有された問題意識として存在していない。
例えば麻生が民族/人種差別的な発言をしたとしたら、マスコミはそれを「社会問題」としてではなく「自分達が掘り起こした問題」として語るだろう。
マスメディアと政治家と市民/国民の間に共有される人種問題の意識など今の日本に無いし、だからメディアも自分達だけの問題意識として語らざるを得ない。マスコミが「オイコラ真面目にやれ」と言うとしたら、それは自分の構成した問題だからだ。
一部の政治家が人種/民族差別的な言葉を好んで吐くのも、その発言やそれに対する擁護/批判が、社会的なレベルでは意味を構成しないことを知っているからだ。
むしろ社会性を持たないことで、この差別発言は身内内部の結束の符号になっている。外には通じない符丁として。
この内輪だけで通じる符丁には、字面とは別の意味があり、外からの批判は彼らにしてみれば「的外れ」だろう。*1だがそれは思想/主張が違うというのではない。むしろこの符丁をテコに彼らの思想なり主張なりが後付け的に構成されている。
日本における政治的な「差別問題」はそこにある。それは党派的な役割を負った言葉=符丁の上に事後的/思弁的に仮構され、むしろ「現実」を覆い隠す役割を果たす。*2
そうであるから、この国で民族/人種問題はフィクションだ。陵辱される二次少女が実在しないのと同じように*3、差別的に語られる少数民族も社会的には実在しない(例えば日本に先住民族はいない)。だからこれは個人の私的な表現の自由の範疇である。*4
そして麻生がオバマのようでないのは、人種問題を社会的な責任を持って語ろうという意思が、誰にも無いからだ。その必要が無いからで、それはそのような「問題」が現実には無いからだとされる。
だがそれは「問題」を見出す能力/意思の欠如を意味するのみだ。そしてオバマの今回の措置を「問題解決」と見るのは、そもそも「問題」を見ることをしない人たちだ。
ちなみに上ブログの翌日のエントリは面白い。ただそれでも、人種を超えて酒を飲むことは、問題解決の方法/手段ではなくいわば目的だ。