現実の差別も私的なファンタジーに基づくのだし

いまちょっと騒ぎになっている例のエロゲ問題に絡んで、大雑把に。
個々人のファンタジーは消せないし、声高に非難してもね、というのはある。だが一方で、このような表象が公然と流通することの持つ社会的な意味というのを軽視できないとも感じる。
以下、個人的に感じることと近いなと思ったエントリ。ただ「支援」は無いだろう。

結論は簡単で、私たちは、児童ポルノを肯定するならば、同時に児童に対する性的虐待を否定し、被害者を支援しなければならない。そのとき、子どもに対する性的欲望は問題なく両者を識別できるのだろうか。実際の性的虐待を受けた子どもたちに欲情せずにいられるのだろうか。思考実験するには値すると思う。

ヴァーチャル児童ポルノの問題 - キリンが逆立ちしたピアス

児童ポルノを肯定し、同時に児童に対する性的虐待を否定」するということが本当に可能か?
当事者のアタマの中では無論可能だろう。
例えば例のエロゲにしても(まああれの問題点は児童ポルノであることではないが)、それが「商品」として売られていて、消費者はそれを購入するわけだ。これは社会関係で、この消費行為は社会的にどのような意味を持つだろう?

そのとき、子どもに対する性的欲望は問題なく両者を識別できるのだろうか。実際の性的虐待を受けた子どもたちに欲情せずにいられるのだろうか。思考実験するには値すると思う。

CG画像は単に記号に過ぎないが、現実の性的虐待もやはりかなりの部分記号的な行為なわけで、だからこそそれは単に暴力であるだけでなく「差別」である訳だ。その意味で本人達がいくら識別可能だと言い張っても、両者に本質的な差は無い。現実の性的虐待もファンタジーに基づいているからだ。*1
だからこの種のエロゲは性関係に関する差別的なファンタジーを助長/擁護するものだと言われて仕方ない。
無論そのようなファンタジーであったとしても個々には勝手に持っていいものだが、エロゲは「商品」だ。大量生産される商品として市場に提供され、売買関係(無論社会関係である)が成立しているということは何を意味してしまうだろう?
現実には、差別的な商品=メッセージが存在し、それを消費=支持する人がいる、と見られるわけだ。それは一般的な商品市場に対する我々の印象に基づくもので、誤解とは言い切れない。
この売買関係をどう解釈しようが、「児童ポルノ」自体とそれを成立させる背景を肯定する社会的なメッセージだとしかならない。自由市場における態度表明は、個人のファンタジーの問題に過ぎないわけでないからだ。それは市場で行われる社会関係の一部であり、カネ=支持が支払われている以上、購入者はこの差別的なメッセージの社会的な再生産/流通に積極的に加担していると言われて仕方ない。
他方で、「同時に児童に対する性的虐待を否定」する態度を同様の強度で社会/市場に流通させる手段をオマエは持っているのかと。

実際、私的なファンタジーといいながら、エロゲ等かなりメディアとか流行とか外部情報に依存した嗜好だよね。これってぶっちゃけると相当程度社会的なものだと思う。
なのに「私的」とか言っちゃうのは、「性的虐待を否定」する態度を社会的に流通させる回路を持たずに、消費だけはしたい、という手前勝手な態度を正当化したいためか。
無論それも仕方ないといえるし、やっぱ妄想したいわけだが、外部のリソースによってのみ駆動されるような妄想を「私的な妄想」と言われてもね、というのはあるだろう。
その意味でこれは多分、自由とか権利とかの(政治的)問題じゃなくて、消費の問題なんだという気がする。個人の私的な妄想というのも今や消費行動の一形態なのだと。(ここで言う消費とは交換/流通のこと、要するにコミュニケーションのことね)
だからこの件に関して、政治的な自由/権利の問題であるかのように言う言説は、何かを隠そうとして発せられているかもしれない、という警戒感を持つべきだと思う。
例えば外部と具体的なリソースをやり取りするようなコミュニケーション行為が、この私的で差別的なファンタジーを外部/社会に維持する助けになっているかもしれないが、政治的言辞による解釈はこの社会と個人の関係性を私的なものとして隠蔽する。
要するに現実の性的虐待を私的なファンタジー、他者が口出しすべきではない問題として解消しかねない。*2
現実に存在する社会関係を私的なものとして度外視することで、(この手の議論でよく見るような)現実にある性虐待の実体/深刻さを故意に無視/軽視しようとする態度が可能になっている。

ただ、「ゲームはゲーム」だと呪文のように唱えるよりは、性的虐待について率直に考えるよい契機になるように思う

ヴァーチャル児童ポルノの問題 - キリンが逆立ちしたピアス

実際、こうすればみたいないい案は無いなあ。。。ただこれは内面の自由だとか私的なことだとか言って済まされないよなあ。オマエの妄想はオマエが思う以上に社会に開かれてるんだよ。*3

*1:ヴァーチャルかリアルかについてもう誰も問題視しないのは、影響関係がはっきりしないという以上に、区別することに意味がないと感じる人が多いからという気もする。

*2:大げさな言い方だが、例えばDVやストーカー行為のようなものを、実際に客観的な被害がなければ問題ではないとする解釈を可能にするかもしれない。

*3:というか、市場/社会が個人の内面深くにまで食い込んできているのだと思う。が、それは別の話。