柯徳三の憤った「日本人」

先日NHK「JAPANデビュー 第1回『アジアの“一等国”』」という番組があった。
で、以下のブログエントリに触れられている番宣を自分も見ており、そういうものとして放送を見た。
ちなみに同エントリはこの番組に対し非常に良い見方をしていると思う。

台湾の人びとは自分たちに対して非常に友好的に接してくれていたし、植民地時代を懐かしく思う声もあったが、ある瞬間にはその表情が一変し、日本に対して非常に厳しい声をあげるときがある。その印象が自分には強烈に残り、その豹変は一体、何に由来するのかということに興味を覚えた、と。

NHKスペシャル『アジアの“一等国”』が伝えようとしたもの - 過ぎ去ろうとしない過去

今、保守系議員とかそこら辺の人たちがその内容に抗議しているらしい。実際に見た者としては(たとえ保守であれ)抗議されるような内容であったとはちょっと思えないのだが、、、
抗議者たちは「偏向報道」とかそこら辺の人がいつも使う語彙を今回も用いており、具体的にこの番組の何が問題なのかはまだ良くわからない。
この番組の証言の「扱い方」には早い段階から異論が出ており、そこら辺が原因なのかな?
以下はその典型例かと思う。
NHKスペシャルは、「日本統治より国民党統治の方がひどかったと話したが、その部分は番組で削除された」- 株式日記と経済展望
なんというかウンザリ。
フランスや中国の方が日本よりヒドイことをしたから日本はひどくないよ、という「5と3では3の方がより0だから3は0だよ」みたいなロジックがまたも見られる点は措いておく。
この番組は、証言者となった柯徳三自身のドキュメンタリーではなく、彼の思想を探るというような番組でもない。極端な話、彼が何を言い何を言わなかったかは大した問題じゃない。
問題なのは、彼が何故そう言い、あるいは言わないかだ。
彼は統治下台湾(日本の統治)を良く言っているし、悪くも言っている。個々の発言が放映されたりされなかったりはどうでもいい。トータルで彼の日本に対する評価は両義的だということは押さえられていた。
この番組が彼を取り上げた目的/問題意識は、この両義性・彼の「豹変」が何によっているのか?ということだったはずだ。
誰でも(ある事柄について)両義的な態度を取ってしまう事は普通にあるだろう。だがほかならぬ彼がこのドキュメンタリーで取り上げるに値するのは、彼がそのようであるのは日本による台湾統治政策に直接的な原因があるのではないかと考えたからだろう。
ある個人を通して時代なり歴史なりを見るというのは、多分そういうことだ。彼の語る言葉をそのまま記述することでは、その個人しか見えない。
(そのまま記述することで柯徳三という人物がわかり、それはそれで意味があると思う。以下はそれ以外の余計なことまでわかってしまった例w
まさかチャンネル桜が日本占領下における台湾での「差別問題」を告発しようとは。
以下は同エントリの「台湾の元日本軍人が恨んでいるのは戦後日本―なぜ正確に扱わない」という節にある部分。

これらは「日本統治」にと言うより、明らかに戦後の日本に向けた言葉である。台湾人を勝手に国民党に渡した戦後日本人に対してか、戦後補償もろくにしないで来た戦後日本人に対してか・・・。いずれにせよ、日本国民として戦った自分たちを他所に放り投げて「みなしご」にし、その存在に見向きもしないで来た戦後日本への恨みである。

http://blog.goo.ne.jp/2005tora/e/934da784edf7fab79c0333cda8e2c772

だが、多分台湾をそのように扱うとしたのは政治の連続という意味では戦前の日本なのであって、戦後の日本はそれを(単に事務的にか、もっけの幸いとか)継続しているだけだ。
無論このような戦前/戦後日本という分け方にこそ意味が無い。特に外部の人間にとっては。だがこれに意味を見出そうとする試みはそれこそ戦後ずっと続けられてきている。(戦前は暗黒の時代だったとか、戦後日本の堕落云々とか)
そこで言えるのは、我々にとって戦前/戦後は異なる(正反対の)価値を持つということで、我々は今もこの近代日本史への両義的で矛盾した評価を自分の中にうまく収められていない。
むしろ戦前/戦後という区分は、この両義性/矛盾を解消する手がかりになっている。両者を区別して語ることで、一方に自己を投影し、他方を自分ではない他者として距離を置くことを可能にする。それは何がしかの意味で免罪(免責)を意図したものだろう。
要するに、柯徳三が日本に対するアンビバレントを語るようには、我々は自分の中の近代日本に対するアンビバレントな評価/感情に向き合ってない。彼の「豹変」を見れば、それが実存的な苦痛/苦悩を伴うだろうことは明らかだ。我々はこの苦痛から逃れようとしているのではないか?
その意味では、自分にとって都合のいい日本だけが(本当の)日本である、というような態度をとる者こそが、柯徳三が憤る(台湾を他者として「放り投げた」)「日本人」なのであって、それは戦後とか戦前とかいう話ではない。
HNKがそこまで意図したかは知らない。だが彼の豹変する態度、日本に対し両義的な思いを強いられた人物が取り上げられた時、その両義性はどこから来るのか? とは誰もが思うことだろう。そのように作られた番組だったといえると思う。
これを「日本のいいところが取り上げられていない」というような理由で偏向というなら、その者に、柯徳三が憤るように憤る必要がある。