岡田監督と韓国

個人的には横浜マリノスを日産時代からひいきにしている。水沼貴史が好きだったからだが、札幌の人間としては、日産/マリノスには北海道出身の選手が常にいたからというのもある。
無論元道民としてはコンサドーレも地味に応援しており、、、、、
要するに日本代表を初めてのW杯に導き、コンサをJ1に押し上げ、FマリでJを連覇した岡田監督は個人的には神に近い存在である。
デンマーク戦の結果いかんでは、、、、

よく言われるように、彼のチームの特徴は徹底したリアリズムだ。
だが実際には、たとえばコンサに来た当初はほとんど空想主義的な理想主義サッカーをやっており、打ちのめされて路線変更の末にJ1に上がっている。
Fマリでもそうだったし、今回の代表を率いても同じような筋道を辿っている。つか、本当は彼もバルサのようなサッカーをしたい人なのだろう。
だが彼が掲げる目標は非現実的なほどに高すぎるため、結局代表もこうなるだろうことはコンサポマリサポならはじめからわかっていたことで、そして彼に本当に期待できるのはリアリズムに転向してからだ、というのもわかっていたことだ。

実際、彼がW杯での目標を「ベスト4」と言い出した時も、"また病気が始まった"と思ったコンサポは多かったろうが、ここはそういう話ではない。

岡田監督が「ベスト4」と言った時、努力目標として言ってるわけではなかったし、メディアを煽り選手を鼓舞するためでもなかった。同じ目指すなら大きな目標を、的な精神論でもなかったし、無論本気でベスト4と思っていたわけでもない。
単に、日韓大会で韓国がベスト4だから、日本だって「ベスト4でなければならない」という理由だった。
現実的な、代表チームの能力やポテンシャル、世界的な強豪との力関係をベースにした目標設定ではない。ただ"韓国には負けたくない"っつーだけの(ある意味狭い)意識である。

JSL時代からサッカーを見ている身には、この意識は何となくわかる。
当時の日本にとって韓国は不倶戴天の敵であり、世界は"韓国の向こう"としか意識されない中世的な世界観しか持てなかった。

この世界観を、三浦カズくらいの世代までは引きずっている。
カズくらいだと、ホテルのエレベータとかで韓国人選手と一緒になってもお互いガン無視だったそうだ。相手に対する意識が強すぎるのだ。
だがたとえば中田ヒデくらいになるとこれが無い。彼の世代は最初から世界を見る目を持っていて、韓国に対する特別な意識はないようだ。彼が居合わせた韓国人選手を無視するとしたら、単に意識していないからだ。
そしてこの新しい意識が、日本サッカーのレベルを次の段階に押し上げている。

日本サッカーはその頃から、意識的に韓国を自分の意識から追い出そうとしてきた。
世界基準への参入を目指す日本サッカーにとって、韓国にこだわることは日本サッカーの後進性の現れであるかのように感じられている。アジア的発展段階の呪縛から逃れるために、日本サッカーでは「脱亜入欧」が意識され続けている。そこでは自らのアジア性を否認することが近代化だ。

だが最近、個人的には、岡田監督のようにもう少し韓国を強く意識したほうがいいのではないかと感じるようになった。
すでに韓国は世界レベルのチームだということもあるが、結局"アイツにだけは負けたくない"というベタでフィジカルなルサンチマン的感情こそが、よく言われる"強いメンタル"なるものの正体なのではないかと感じるからだ。

韓国サッカーのこの25年を見ると、要するに彼らは舐めた屈辱の分だけ強くなっていると感じざるを得ない。
1986年の韓国サッカーは確かにテコンドーレベルだった。1990年にオランダにボロキレのように踏みつぶされた。だがその末にパク・チソンが生まれたのだ。
韓国サッカーがフィジカルな強さにこだわり続けるのは、彼らの国民性というより、戦いの現場の体験で、サッカーとは徹底的に形而下=フィジカル的なものであると思い知ったからではないか。

敗れることが屈辱であるような経験や対戦相手を、日本サッカーはあまり持っていない(一瞬オーストラリアがそうなりかけたが)。
負けることが大切だ、などと言いたいわけではない。アジア予選を突破して以降、屈辱を、言い換えれば危機感を抱かせるようなシチュエーションを日本は未然に・心理的に回避してきたように見えるのだ。
韓国に連敗しても、バーレーンに苦戦しても、「世界」という抽象的な概念に逃げ込む。「将来」とか「世界」とか「日本らしいサッカー」とかが、体のいい言い訳として機能している。将来へのステップとして現在が解釈され、目の前の敗北を合理化する理屈として機能しているのだ。
(1998年に、全敗となってなお未来を語り騒ぐサポーターを指してラモスは「ただ逃げ場を探しているだけだ」と言ってたな)

だが岡田監督がベスト4と言った時、それは韓国を意識してのものだ。現実にある彼我の差にいわば屈辱を感じているわけだ。
おそらく彼にとって「屈辱」は心理的な感情ではなく、身体的な経験のことだ。
物理的に殴り返さずにはいられないような衝動、内面において合理化できない、筋肉組織に訴えかけるしか解消しようのない心理状況、彼にとって韓国との歴史はそのようなものとしてあり、たぶん彼はそれこそが"強いメンタル"の根源であると考えている。
だからあえてベスト4という。これは"物理的に叩かなければならない"と言っていることと同じだ。

岡田監督にとってサッカーとはベタに形而下・フィジカル的なものであり、それこそが通信回線経由の"情報"としてサッカーを把握しがちな(またある時期までそうするしかなかった)日本に何より欠けているものだと意識されている。
プロリーグが発足し、衛星中継やインターネットで欧州の最新情報を入手できるようになったからといって、世界が近づいたわけでは全く無いのだ。韓国は依然としてあるこの距離の物象化である。

この観点からは、たとえばジーコオシムの言う「日本人らしいサッカー」の定義・概念などは外国人らしいオリエンタリズムだ。
実際岡田監督はこの語をあまり使わない。だた自分たちは個の力に劣っているから組織化するしかないと言っているだけだ。先進国の戦術概念ではなく、頭の中にある(しばしば理想化された)自己像でもなく、自らの現実の身体を拠り所に戦わなければならない。

韓国はそうしてきたのではなかったか? 岡田監督は韓国を(ルサンチマン的に)意識することで自らの(日本の)闘う身体を見出そうとしている。それはまさに韓国が世界を相手に強いられてきたことであり、それこそが"闘う"ことだと理解されている。

などということを、隣国の決勝トーナメント進出決定を知って思うわけだ。