韓流イケメンにレイプされてるのぉ ビクンビクン

いまいち同意できない部分も多いが韓流についての分析。時期的に前回フジテレビデモの頃のもの。
なぜ、水戸黄門が終わり、韓流ドラマが増え、USドラマにはけちがつかないか

いろいろ言われる国内メディアの韓流押しだが、このまとめではむしろそれはいわゆる「グローバリズム」の問題であるという指摘が(ちょっと)なされている。
以下もK-Popの国際展開をある種のグローバリズムとみなしている。*1

「K-POP」と書いて「グローバル・ポップ」と読んでみる:WIRED.jp

グローバリズムは多くの側面をもった概念だが、ここではポップカルチャー/ライフスタイルに関するものについて。
フジへのデモにしても、なんか「反グローバリズム」としての運動なのではないかと見える。
当人たちにはそんな意識はないだろうが(単に嫌韓感情で満ち溢れているにすぎないかもしれないが)、そうであってもこれは、国境を越えて拡大する強力なグローバリズムの圧力にローカル地域が抵抗するという、ここ20年くらい世界各地で起こっている事の繰り返しであるにすぎないと感じる。

韓国は、自国製のポップカルチャー・大衆文化を国家のバックアップにより世界展開していこうとする意図を隠していない。あの愛らしかったBoA(今は…)もそうだったらしい。
しかし重要なのは、現にそれが各国で消費者に受容されつつあるということだ。それは自然的なブームではないかもしれないが嘘でもない。TSUTAYAで韓流ドラマはレンタル数を年々増やし、おかげで韓流DVDのエリアがどんどん広くなっている。

グローバリズム」といえば前世紀末からアメリカが推し進めてきたものだ。その国家的・経済的な影響力と情報・通信革命を背景に、特に経済的な「グローバルスタンダード」が世界展開した。橋龍もこのビッグウェーブに乗れと言ってた。
これは各地域の独自の産業構造や流通形態、政治・経済体制までを破壊したが、新自由主義イデオロギーのおかげで肯定的に推進され、侵略とはみなされなかった。日本の政党政治液状化や地域のファスト風土化はこのあおりだ。

マクドナルドやスターバックスに関しては、やっぱり消費者が選んだものだ。
比喩的にはそれは「文化侵略」だったかもしれないが、現実には消費者はそれを選択し、歓迎したのだ。自分から進んで旧来の慣習や生活を捨てて行った。オヤジの経営する一杯500円の喫茶店より、スタバでエスプレッソ飲んでる方が快適で気分がよかったのだ。

そもそも何故我々はスタバでくつろぎiPhoneをタップしHipHopを模倣しフェイクタトゥーを入れる?
便利で安くて高品質で、みたいな「効用」は全部後付けのウソで、要するにそれが「楽しく」「気分がよい」からだ。その種の「快楽」に我々のカラダは抵抗できない。
理性ではそれはアイデンティティの破壊で文化的侵略で。。。と思っていても、この快感原則には勝てない。*2

これは80年代に村上龍がしつこく問い続けたことだ。当時の彼はポップカルチャーが簡単に国境を越えてしまうことの意味を考えている。最近は経済に傾倒しているようだが、アメリカのポップカルチャーがグローバルに浸透したのはドルの力が背後にあると考えたのかもしれない。
しかし韓国人はそうではないようだ。彼らはやっぱり「ポップ=快楽」こそが、それ自体で、国境を超えるチカラを持っていると考えているらしい。

楽しむことに後ろめたさを感じる人々

デモをしている連中の主張は一枚岩ではないだろうが、韓流自体が問題ではなく、フジが許認可事業としての放送局のあり方に反している、というようなことらしい。
まあ無理筋な主張ではある。反韓流デモとくくられちゃう理由だろう。日の丸が掲げられていることが、韓国はともかく、ある種のナショナルなアイデンティティーの問題であることを示している。

デモにとっては韓国であることは副次的なことかもしれない。だが多くの人が指摘するように、アメリカなら問題にならかっただろう。その「侵略」の背景にあるドルの力が明らかだからだ。いわば好むと好まざるとにかかわらず強いられてると強弁できるからだ。

だが韓流は? ウォンの力を考えれば、日本人自らそれを欲望しているとしか言えない。そしてそれは事実なのだ。
結局我々日本人が(部分的にではあれ)現実に韓流を欲望している、という事実が許せない人たちがいる。

実際、この件では矛先が韓国そのものではなく「身内」のフジに行っている。
K-Popを「ゴリ押し」しているのは最終的には韓国政府だが、そこにはいかない。それは国家戦略として正当であるからだが、むしろそれを受容してしまう「自分」が許せない。

(特に男は)下半身の欲望を上半身の理性が制御できなくなると、欲望の対象に道徳的な責任を転嫁することで理性の優位を欺瞞的に確保しようとする。
女が淫乱であったり性的に堕落していたりするのは、男が自分の性的欲望をその対象に投影・転嫁して語るからにすぎないが、反韓流にも多分同じ欺瞞がある。

というか、アメリカ発のグローバリズムへの対抗運動も、多分みんなそのような側面を持っている。マックでハンバーガー食ってる連中が反グローバリズムデモを行ってたのだ。
奴らが我々を侵食してくるからではなく、我々が奴らを欲望してしまう。レイプされてるのに感じちゃう私あぁビクンビクン、である。
それが強いられたことなら、そんな自分が許せないというのは当然あることだ。自尊心が奪われていると感じるだろう。

グローバリズムに抵抗する運動として、ほとんど唯一有名になったのが「スローフード」運動だ。あらゆるデモが、それこそ本家アメリカで起こったデモでさえ四散したが、スローフード運動だけはいまだ持続的に思想的影響力を持っている。*3
これは対抗運動だが、価値創造的でもある。自尊心の毀損の回復のためなら、そういう方向に行くしかない。

とはいえこれも結局はファストフードとの共存を避けられない。もう生活様式としてスローフード一辺倒なんて考えられないわけだ。
ここで単なる快楽だったものに実質的な意味や効用・必要性や利便性が見出され、文化とか呼ばれるようになるだろう。
デモも対抗運動も、たぶん反省的に「外来のポップ」にローカルな必要性や文化性を与えることになる。

それは結局自ら欲望したものだったからだ。
無理矢理レイプされて腰振ってしまった」なんてこと自体そもそも全くの作り話だったかもしれない。自分で選んで快楽に身を任せたことが体面悪くてデッチ上げた都合のいい狂言話のようなものだ。

むしろ下半身と上半身の分割線?を現実の国境線に投影しつつ、一方にのみ「自己」をアイデンティファイし、都合の悪い事をすべて他方のせいにするような態度そのものが問われていい。
たとえば視聴者と民放テレビ局の間に明確な分割線など引けるか?
彼らの振舞は、なにがしかの意味で我々の欲望を反映したものだということは認めなきゃいけない。

*1:ちょっと見つけた「グローバリズム」という語を使っているエントリ。ただここでは、経済合理性の問題であるというような意味で使っている。

*2:実は最近(世間的にはちょっと遅れて)KARAを聞きまくっている。確かに目新しくはないが、ウェルメイド以上のポップスという印象で、とにかく楽しい。

*3:あとマイクロクレジットくらい?