日本語で歌うカラ〜

確かバブルのころだったと思うが、日本の美術館が結構な額を出してアンディ・ウォーホルリキテンスタインだったかもしれない)の作品の「オリジナル」を購入した、ということがあった。
「複製芸術」のオリジナルにそのような価値があるのか? そもそも複製芸術にとってオリジナルとは何か? という妙に考えさせられるニュースではあった。
オリジナルには固有の価値がある、というのは、どんなに複製技術が発達しても言われることだろう。例えば作品の「アウラ」など、複製技術が登場して始めて発見されている。複製技術の高度化によりそれが失われたのではなく、そのような価値が新たに生まれたのだ。

「Girls Talk

反韓流みたいのが盛り上がってるこの頃だが、最近になってKARAを良く聴いている。


いや実際、嫌韓は考えた方がいいよ、興味もったのアレがきっかけなんだから。「ミスター」が流行ってた頃はうちの子供も尻を振ってたが興味なかったし。
KARAは日本語でアルバムを出していて(「Girls Talk」)、これが聞いてみると意外にいいわけだ。
かつて80年代のアイドル全盛期の洗礼を受けたクチですが、それと比べるとヴォーカルが安定しているのが聞き手の情緒を不安定にさせずにいい。韓国語の方も聞いてるよ。youtube見まくり。女神かわえー。

日本語で歌うKARA

日本語で歌うKARAの魅力はその微妙な日本語の発音で、これはKARAに限らず、K-POP全体に我々が感じる魅力のかなりの部分を占めているのではないだろうかと思う。
別にそれが可愛いというのではない(可愛いんだけど)。
彼らに歌唱される日本語は日本語としての内実を欠いている。確かに日本語の音節で、日本人なら意味もとれるのだが、決定的に何かが欠けている。
彼女たちは一生懸命日本語を発音しているのだろうが、ネイティブが聞けばそれは単に日本語音韻に似たただの音声にすぎないと聞こえる。言葉から意味が脱落しているように聞こえるからだ。
言葉として訴えてくるものがない、いわば「心がこもってない」のだ。

ポップ

だが考えてみれば、ポップミュージックとは元々そういうものではなかったか?*1
桑田佳祐があんな歌い方をしたのも、パフュームが声にあんなエフェクトをかけるのも、小西康陽がなんの意味もない歌詞を用いるのも、吉田美和が日本語アクセントを意図的に無視したのも、日本語を発話することで表現してしまう意味とか心とかを逃れたいからのはずだ。ここに初音ミクを加えてもいいか。
それは多分、従来価値とされてきたもの、たとえば成熟したもの、正統的なもの、実質的なもの、日本的なもの、意味深いもの、といった(しばしば若者に不利な)「歴史的・文化的な本質」みたいな価値観に抵抗するためだ。
歴史も文化も伝統も、単に長く生きているという理由で大人・老人の専有物で、それにこそ価値があるのだとする価値観の下では、若者は常に未熟で価値が低い。
だが日本人として日本語を発話することは、日本的な価値に連なり、不利な序列を受け入れてしまうことだ。
表面的でも、歴史的な裏付けがなくても、無意味でキッチュなまがいものであっても、旧来の価値とはまた別の価値はあるはずだというのが「ポップ」の意図だったはずだ。
それは、単に遅く生まれてきたというだけで年長者より価値が低いとされる若者やそのカルチャーに、積極的に意味付けを与えようとするものだ。

J-POPと日本語で歌われるポップス

正直、KARAの日本語アルバムを聴いて、ここしばらくのJ-POPがやってきたことがいとも簡単に乗り越えられていると感じて軽く衝撃を受けた。
楽曲が優れているとかダンスや歌がスゴイというのではない。
日本のポップミュージックが乗り越えようとしているもの、日本語で歌う-日本人である限り逃れがたく縛られている歴史的、文化的な拘束が、KARAの日本語ポップスには及んでいない。
KARAの日本語ポップスは、彼女たちが韓国人である限りJ-POPのニセモノ・コピーでしかない。*2
だから(日本人の作る)オリジナルの方が価値がある、と言った途端に我々は「拘束」された老人だ。だがKARAの日本語ポップスを聞いてそう言わずにいるのは難しい。我々は日本人のJ-POPを聞いて育っているからだ。
歴史的・精神文化的本質こそ「本物」の価値である、と語りたい誘惑を断ち切ることは難しい。たとえ若くてもだ。
特に(KARAのような)複製物を見たときなど、ついオリジナルに「アウラ」を見出してしまう。*3
無論「アウラ」など虚構にすぎない。複製物を「複製物」と名指し、価値を低からしめるための(老人のよくやる)詭弁である。
だがそれは拘束力を持ち、一方KARAの楽曲はそこから「自由」であるように見える。それは日本のポップミュージシャンやリスナーが到達できないような自由だ。
それは単に彼女らが外国人だからというに過ぎないが、そこに自由を見るか無価値なニセモノを見たいかは、結局見る側の問題だ。

グローバリズムと現地化

これはKARAの日本デビューアルバムの楽曲(K-POPの日本語版)を聞いて思ったことだ。
だがそれ以降、日本での活動を本格化させてからのKARAは「現地化」を進めているように見える。メンバーの日本語もこなれてきて、新曲「Winter Magic」ではとうとう作詞・作曲まで日本人だ。
正直「Go Go Summer」以降はツマランのだ。日本に適応しようとしすぎている。現地の価値の序列に連なろうとしている。それはポップとは反対の態度ではないかとは思う。
少なくともKARAにそうではないものを求めていた人って多かったんじゃないかな?
もっとも"アイドル"としてその保守的な態度は正解なのかもしれず、彼女たちの日本におけるターゲットの持つだろう保守性と親和的なのかもしれないが。
(韓流が展開するような)グローバリズムって実はそういうことなのかもなーとも思った。

ガールズトーク

ガールズトーク

*1:いやこのポップはPopularのことでポップアートとは関係ないだろっつーのはまあww

*2:ただ、単に音楽的に見た場合、J-POPとK-POPは意外に違うものであると思う。

*3:J-POPだって何かのニセモノだが、J-POPと名付けられた時それが見失われた気がする。