悲しいけど、これって論述の問題なのよね

例の5x3問題。もう収束したと思うが、個人的に面白いので続ける。
ま、こだわっている人はいるようで、以下および関連のエントリは個人的にはとても面白いのだが、あまり関係ない話になるのでトラバ送るのはどうしようかな。つかはてなだと無条件で飛ぶのね。

だが、結局のところこの「ルール」は、「日常言語」を抽象化によってどのように「数学語」に翻訳するかということであり、本来は正解などないのだ。

それでも自然数の積は可換である - 吾輩は馬鹿である

ただ前回(5X3には論理的な根拠がない(だいぶ横))書いたように、こんなことにこだわる教師がいるのは「日本の子供たちは計算問題は得意なのに文章問題が苦手」という危機感が背後にある(ええ小学生の子供を持つ親として先生方のこの手の危機感はヒシヒシ感じます)。
なので、ここで問題なのは算数か数学か数学的に正しいかなどということではなく、文章を正しく読み解けるか、論理的な記述ができるか、ということ。国語力の問題である。
かける数とかけられる数が可換など教師なら当然知ってる。その上でこのような議論になっている。

異なる文法について

数式において数字・算術記号の並びには意味がある。これは日本語から/日本語への翻訳という作業においてそうである、という事だ。
なぜなら両者は文法が違っているからだ。
例えば「4本足のカメが5匹いる、全部で足は何本?」という問いに以下のように書いた子供がいるとする。

20=4x5

数式的にこれが4x5=20と異なっているのか厳密なことはわからないが(同じだよね)、ではこれは正答か? 違うなら何故か?
上は答え20が突如(何の証明・計算も無く)出てくるような記述である。
数式においても左から右へ読み下すという順序はある。式自体として間違いではないということに何の意味もない。
だが重要なのは、数学において=記号は、その左右両辺が単にイコール(可換)であるというだけの意味ではなく、左辺である故に右辺である、という論述証明の意味を持つということだ。
そして日本語には、この両者の意味を併せ持つ単語、接続詞などはない。
だから=を日本語に翻訳するとき、そのどちらであるのかは明確に区別された異なる言葉を使って表さなければならない。
無論日本語文を数式に置き換えるときも同様である。異なる概念は(結果的に同じ訳語になるとしても)明確に区別して用いられなければならない。訳出先の数学において両者の区別がないからと言って、翻訳者が区別しなくていいというものではない。
文法が違うとはそういうことだ。そして何かを「学ぶ」とはそういうことだ。
問題自体から5X3は出てこない。文法・翻訳の問題として出てこないわけだ。誤訳である。
あるいは全てわかった上で5x3と書き始めたのだとしても、設問に対し「不十分な証明」である。逐次的な証明になっていないからだ。
だから件の子供は設問に対し以下のように書くべきだった

3X5=5X3=15

単純な式一つで答えが出る問題ではあるが、式を書かせるということはつまり論述の問題である。

教えることと学ぶこと

5x3=15と書いた子供にバツを付けるのはおかしい、という話なら(そしてそもそもこれはそういう話だ)、それは算数/数学的な妥当性の問題などでは全く無く、「教える」「学ぶ」とはどういうことか、文章を読み解く、論理的に考えるとはどういうことか、という観点から判断すべきである。つまり教育の問題。
その観点から、5x3と3x5を同じように評価することはできない。間違いではないが、何らかのコメントが必要だろう。
ウチの子もこの手の誤りに先生のコメントがつけられることがあるが、当然だと思う。
コメントが必要な時点でただの○とは意味が異なっている。重要なのは意味の違いであり、○かXか△かあるいは◎かは本質的ではない。
だがこの「意味の違い」を捨象し、(数学的に)間違いでないのだから無条件に○であるとするなら、そのような二者択一的な硬直化した思考こそ問題ではある。

ルールの階層

論理的に考える、というときの論理体系は、多層的に構造化されている可能性がある。階層化されている以上どうしても「判断」が出てくる。だがこれを数学のようなフラットな一元論と把握してしまう人はいる。
例えば「車内で携帯を使用すること」について、法的に禁止されていないからOKだろ、と本気で考える人がいる。
この問題は法の階層で規定されることではないのだが、そういう「判断」ができない。異なる層をいっしょくたに把握してしまう。垂直方向の構造を把握するのは人によっては難しいらしい。
そして文章問題を解くには、(日本語で語られる)こういった多層的かもしれない論理構造を理解する必要があり、日本の子供はこれが苦手なのだ。
数式および計算自体は、単に規則の体系にすぎない。可換性もそうだ(これは得意)。
だが「鶴が3匹」などといった時、それは数学的規則の外から、それが参照できないところ(上位層)から与えられる問題だという感性/論理性は持っておく必要がある。
数学的規則が適用されるのは、数式が立てられてから後である。
ではそもそも数式を立てるのは何か? 規則ではなく論理=法(ここでは文法)である。
日本語を数学的規則で解釈することはできない。かける数とかけられる数が可換だとして、カメの足とカメの数は非可換である。
現実に不可能だからダメなのではない。参照すべきでない規則により解釈されているからダメなのだ。そのような状態は「論理的な混乱」である。
そしてこれを混乱なく可能にするのが抽象化能力だ。カメを抽象化することで単なる数字に還元し操作できるようになる。だがそれこそが式を立てるということなのだ。
大切なのは(問われているのは)、還元された結果ではない。事物を抽象化するには論理的な手続きが必要だということで、この抽象化=翻訳過程に数学規則の入る余地はない。
この次元で可換性など意味がない。むしろそれを可能にするために抽象化を行うのだ。