断絶を飛び越える

id:Sokalianさん、コメントありがとうございます。返答したかったのですが、長くなったのでエントリにしてトラバします(なので丁寧語)
これは反論といったものではないです。むしろ関心領域が異なっているということを再度言うためのものです。
少なくともこの事例の場合(今の子は算数の文章問題が弱いという意識が背景にあると考えています)、先生の目的は、日本語文を読解し、その答えを算出する手法なり方法論を組み立てることであると考えています。
何がいくつ何人分あるので答えは。。。というふうにです。乗算の適用もそこで発見されるでしょう。
誰かが、要するに数字の後ろに単位とかを添えればいいんじゃね? と言ってましたが、

3個 X 5人 

これは日本語です。この時点では数式ではないと考えます。なんならXを"掛ける"と書いてもいいですが、要するに交換不能な条件が付帯しています。日本語だからです。
先生方が乗算を使う文章問題に関して「教えて」いるのはこのことであると考えます。算数的規則はこの後です。
ならば以下はどうでしょう

5人 X 3個

これ自体として間違いではありません。問題は、これが元の問題文の解析の結果出てきたものであるかどうかです。

1.日本語文の問題があり、
2.それを意味体系を保ったまま数式に置換可能な表現に並べ替え
3.数式に置換する

のようなプロセスを踏むとして、私が問題視しているのは(そしてそもそもの先生の問題意識も)1.から2.への移行の場です。
というより、語の記述順などここ以外で問題になりようがありません。
それは単純にいえば「てにをは」をどう解釈し、主語、述語、目的語を正しく把握できるかということです。
例えば以下の2例で、語/数字の出現順が入れ替わっているのではありません。主語/主格が入れ替わっているのす。だからこれに基づく2.も入れ替わった表現になるでしょうし、それに単純に基づく数式でも入れ替わるでしょう。それは可換性とは関係のない話です。

既に色々な人が指摘していることですが、「日本語の語順」を基準にしてさえ、「リンゴ5個を入れる操作を3枚の皿に対して行う」「3枚の皿それぞれにリンゴを入れる操作を5回繰り返す」と、この問題は2通りの解釈が可能です。

解釈以前に「問題文」は一意に与えられています。
大切なのはこの両者を正確に弁別すること、語の出現順は主語/目的語/述語の並び順とは関係がないのだ、ということです。語の出現順は"何を言っているか"を決めません。
文において「意味」は、語の出現順により構成されるのではなく、文法構造により構成されます。
そして掛ける数と掛けられる数は(主語と目的語がそうであるように)明確に別の概念であり、この理解抜きに日本語を正しく理解できません。
主語と目的語を取り違えて理解したとしても、乗算であれば結果的に正しい式になるでしょう。しかしそれは単に数学規則の事情です。たとえば除算では通りません。そもそも元の日本語を正しく把握していないのだから当然です。

教えることと学ぶこと

ここが正しく理解できているなら、最終的に得られる式が3x5だろうが5x3だろうがどうでもいいことです。
でも引き算の文章問題を、日本語を正しく理解せず、単に(小学生レベルの)算数規則に基づき"要するに大きい数から小さい数を引くしかできないよね"という理解で式を立てるようなことが起こり得るわけです。引く数、引かれる数の概念を文章から正しく析出できないからです。
それでも正しい式を書けば○です。それで終わり? それが数学的思考? 「教える」っていったい何?
いかように異なる解釈・表現が可能だろうが問題文は現に決まった形でそこにあり、そこにおいて掛けられる数・掛ける数は決まっています。主語が決まっているからです。
そこからベタに、日本語の主語-述語構造に基づいて2.的な"式"を組みたて、それを数式に単純置換する、というような方法は、数学に通じた人にはエレガントでないと見えるでしょう。
まるで日本人の喋る英語のように聞こえるかも知れません。
しかし忘れていけないのは、子供らは今「乗算という概念そのもの」を学んでいるのだということです。教師が教えているのは、そこにおけるテクニカルな方法論ではなく、乗算とは何か、そこに至るにはどうすべきか、ということです。
個人的にこの問題を面白いと思い、それなりに考えてみたりもしたのは、自分の子供がまさに今掛け算を習っており、九九の暗記中である事情があります。
算数という抽象的で非実感的な概念に、具体的な事物に直接結びついた日本語世界から飛び移ることが、特定の定型的な手続きを踏むことで可能なのだ。小学二年生の先生が教えなければならないことはそれで、数学的な真理やら何やらはその後です。
すでにそれがわかってしまった人には、何に困っているか見えないものです。
わかったと思う人は、ベタなエレガントでない硬直した手続きを軽蔑し、事物の真理・真相・深淵を語りたがります。あたかも自分が完全に独力でそこを発見し、到達したかのように。
実際、誰も自分は他人のチカラも借りずに大人になったと考えてしまいます。そのためにどのようなプロセスを踏んだかなど、忘れてしまうものです。
忘れてしまうから、先生も悩むわけです。自分はどうやって日本語を掛け算にすることを憶えたのだろう?
そして今、そろそろ子供に掛け算を教えるだろう私自身が悩んでいるわけです。自分はどうやって憶えたのか憶えていないからです。
一挙に数学的真理に目覚めたのだったか? 掛ける数とかけられる数を地道に追って行ってたか? 反復練習で問題文のパターンを覚えただけか? あるいは本当は自分は掛け算など未だ分かっていないのではないか?
日本語文法体系と数学規則との間は地続きでなく、断絶があります。それは子供たちが苦手とするのを見ればわかります。(ただの計算問題ならできるんですよね)
いかにしてこの断絶を飛び越えるか?
日本語の構文解析を元に、ベタに式を立てる。最初の一歩としては悪くないと思います。
最初に踏み出す一歩目は、それ以降のどの一歩とも違っています。"それ以降"の視点で語るには限界があります。語るなら、最初の地点に戻って語るべきです。

どれだけ理屈を捏ねようが、そもそも数学的観点から見れば「3×5」「3・5」「35×」「三掛ける五」「5×3」は全て同じものです

この問題、先生が悩んだ理由は、そこから考えなければほとんど意味がないと思います。数学の側から、そのロジックで考えはいけない問題と思います。まだそこに辿り着いておらず、どうすればそこに至れるか、という問題だからです。

おまけ

個人的には、日本語と数学の間の論理的な架橋は結局不可能だろうと思います。異なる文法を持つからで、結局どこかで子供が数学的思考に"目覚める"のだと思います。
結局教えることはできず「飛び越え」なければならない。このジャンプのために大人が何をしてやれるかは誰にもわかっておらず、各人・各教師のポリシーの問題になるだろうと思います。
重要なのは、私たちも"数学的観点"をゼロから体得する最適な方法などわかっていないと自覚することです。たとえ今できていてもです。
だから5X3と書いた子にXとするか○とするかは結論は出ないでしょう。どちらでもないからです。ウチの子の先生はそこだけ採点せずに留保します。あとで子供と見直すようです。