差別行為の外部委託とその発注者

差別のアウトソーシングというのは面白い言い方だと思ったが、それについて以下エントリに反論とかではないが、補足というか個人的に感じたこと。
差別のアウトソーシングがわからない? 『人間失格』読め!:ビジネスから1000000光年

上では「差別のアウトソーシング」と言っているが、一方そこで引かれているid:toled氏の元エントリでは「アウトソーシングされた差別」と言っている。
手塚プロダクションの歴史主義とアウトソーシングされた差別:登校拒否への道(とうこうきょひへの みち)

些細な違いにすぎないが、個人的には根本的な差だと感じるので、ちょっと。
id:y_arim氏のエントリでは「差別のアウトソーシング」を、要するに差別者/差別行為の責任の曖昧化といっている。例えば自分を中立的な立場だと、あるいは超越的な立場だと宣言するようなことを指しているだろう。態度の保留も含め、現場にあって*1実際に不可能であるような立場を主張することだ。

差別のアウトソーシングとは、早い話が「差別の責任主体を自分以外の何者かに託し、曖昧にすること」

http://d.hatena.ne.jp/y_arim/20090928/1254121088

このような企て、それを実現する仕組みを「差別のアウトソーシング」と言っている。そのこと自体には特に異論は無い。
ただもとのエントリでは「アウトソーシングされた差別」という言い方をしている。
差別がアウトソーシング=外注化/外部化されている、ということがもともとの問題意識だったはずだ。
ただ、エントリ主はその主張をうまく説明できていないと思う。id:y_arim氏にあるような誤解(とは言えないが・・・)の原因だろう。「差別のアウトソーシング」なる語でわかってもらえると思ったのだろうが。
個人的には該当エントリに(つまり以下のような見解に)完全に同意はできないが、とりあえず「差別のアウトソーシング」なる語を用いた意図を自分なりにトレースしてみたいと思う。全然違うかもしれないけどね。

そこには多分、自らの責任を曖昧にする"消極的な"主体こそが、実は差別構造を維持し、差別行為を準備する"積極的な主体性"なのだ、という意識がある。
彼は差別行為を行わない。当事者であるにもかかわらず、現実的な行為から切り離されていることで、加担の責任を負わないわけだ。しかし彼は現に自ら参画する状況にあって中立を保つことで、差別行為が可能な場を維持している。というより、差別行為が不可避であるような構造を消極的に維持している、
「差別行為が不可避であるような構造」とは、要するに(現に差別行為が否定されない)現状のことだ。
彼の中立により準備された「差別行為が不可避であるような構造」下で、差別行為は不可避的に起こるだろう。
それは確率的というかほとんど必然的な現象であって、極論すれば現実の差別行為者の主体性などほとんど影響が無い。(無論、主観的には行為者も責任を負うだろう)
では影響があるのは何か?
当事者が、不可避であると既にわかっている事柄を放置することは、要するにそれを準備することと変わらない。
現実に差別行為が起こったとして、それは彼により準備されたものだ。彼が準備したのだ。
実際の差別行為を行うのは任意の個人/集団だろうが、それはいわば力学的な作用に過ぎないのであって、問題はこの運動の源泉=ソースはどこかということだ。
それは力学的に不可避であるような構造を準備しただ。
たとえ彼の(あるいは意図せざる)差別意図と、実際の差別行為が分離していたとしても、その差別行為を"発注"したのは彼なのだ。"差別"がここで行われる。
もはや彼による差別の外部委託を誰が受注し、現実に差別行為を行うかは問題ではない。そこは差別が正に起こっている現場ではないのだ。
だから「アウトソーシングされた差別」とは、要するに「差別行為が外部に委託されること」で、つまり差別の発注者、主体的な差別者は行為者とは別にいることを示唆している。
アウトソーシングされた差別」と言うことで、中立を装う差別者の無責任を批判するのではなく、より直接的に彼を「差別を積極的に担う主体」として名指そうとしている。
行為者による行為ではなく、このような"発注"の行われる場こそが「現実に差別が行われている場」なのだという認識がある。彼は単に"加担"しているだけではない。彼が中立・非関与を主張する正にそのことが差別行為の外部委託であり、そしてそこにおいてはじめて差別が現前する。
差別はその行為者ではなく、それを傍観するものこそが真に担っているとされており、そこでは差別の構図に関する一般的な理解が転倒されている。

*1:個人的には、差別の場に居合わせているというのは前提だと思う。そうでない場合についての態度まで云々できないと思う。