実名と匿名と知と権力

匿名/実名関連がちょっと盛り上がってる。これはほとんど永遠にケリのつきそうの無い問題だが、別にこの論争?に参加する気も無く、ひっそりと周縁部をウロウロしてみる。かなり観念的?なもので、現実の論争とは関係ないです。
個人的には、実名にはほとんど意味が無いと思うが、それ以上に、実名、というか自分のプロフィールをうpすることに抵抗がある。
これは例えば情報セキュリティの観点、あるいはプライバシー保護の観点から主張されることがもっぱらだが、実際のところそれは後付けの理屈であって、本当は感情的にイヤなのだ。
このイヤというのは一体なにか?

自分のプロフィールが表面化するのがイヤというのは多分誰にもある。
それは思春期によくある「かーちゃんお茶なんていらねぇよ恥ずかしいから出てくんなよ」的なもので、自分のプライバシー/プロフィールを晒すことは、自分の弱みを見せることと感じられるからだ。
思春期の"弱み"は「自分は所詮子供である」という単純な事実だが、厨二に限らず誰も隠蔽したい事実はあったりするものだ。
例えば議論の場で、このような"弱み"を晒すというのは不安なことだ。相手がそれを(理不尽な形で)利用/攻撃してこないとは限らない。
実際、匿名/実名の対立の主要な争点に、どちらがより良質の議論を期待できるか、あるいは差異は無いのか、というのがある。
特に実名を言う人は、要するに議論の場での効用を想定している。
だが匿名へのこだわり(実名の忌避)は、議論/対立的な場でのみあるものでもない。
もっと生理的に、自分に関する情報がおおっぴらになることで、それを見る者の中で"自分"が勝手に再構成されることへの嫌悪や不安があると思う。
何者かにより自分が構成され分析され批評される。結局、自分がどのような人物であるかは他人によって決められるのだ。自分が何者であるか自分で決定できない。
実名は同一性を確保するために提案されているが、実際のところそれは徹頭徹尾"他者にとっての同一性"にすぎないのであって、自分の情報を晒せば晒すほど自己(像)が奪われるという皮肉な結果になる。自己から疎外される、と言ってもいい。本人にとっては不愉快なことのほうが多そうだ。
(既になんからの方法/場所で自己同一性を確保できている人は別だろう。著名人とかね)
ではこの不愉快さの原因は?
この"自己像からの疎外"はwebに限らない。社会関係とはそのようなものだ。
そして実際の社会関係においても、自分に関する情報を出し惜しみ、また時に嘘を付くことで、自己像を自分でコントロールしようとする。
中高生の間のコミュニケーションは、自分が子供に過ぎないというプロフィールを相互に無視することで成り立っている。彼らの自己像はもういっぱしの大人で、そうすることである社会的な関係に参入するわけだ。この参入は、自分が子供に過ぎないという事実を明らかにすることで失われるかもしれない。
このプロフィールの出し惜しみ/棚上げによって初めて成立・維持できる関係もあるわけだ。これはwebでも変わらない。
例えば議論には一定のルール、暗黙の前提がある。人格攻撃をしないというのは典型で、これは要するにその人のパーソナリティ/プロフィールを問題視しないということだ。
実際プロフィールを議論に持ち込まれると、今の問題とは全然関係ない半年も前のことをわざわざ持ち出されてネチネチ非難されることになるからで、議論をする上で意味が無い(しかもこれが言い返せない。あなたってそういう人なのよ、と彼女に自己像の決定権を奪われているからとしか思えない)。
一定の質の議論を維持するために、各人のプライバシー/プロフィールは不要というか有害だというのが、共有された"暗黙の前提"の意味することと言っていい。
各人がパーソナリティを儀礼的に無視され、ある程度抽象化されることで議論は成り立つわけだ。*1
にも関わらず、今や疑わしい議論における効用を超えて実名が要請されるのは何故か?
この点の不審が、不愉快さの原因だろう。

発言者のプロフィールが重要である、という態度は、乱暴に言えばフーコー的な権力作用と言っていい。
それは、各人のプロフィール/プライバシーの中にこそその人物/発言の真実/真意が隠されており、彼のプロフィールを分析的に解釈することで彼の真相を明らかにできる、というようなものだ。真実に基づいた議論のためにプロフィールの公開が要請される。
だがそこでは分析者こそが彼を本当に知っていることになる。彼は自分自身を知らず、彼の真意は分析者だけが握っている。そのような構図を分析者が一方的に宣言するわけだ。
この宣言は疑わしい。議論において各人のプロフィールは基本的に不要だし、むしろそれが(一部)棚上げされることで成り立つのが議論であったはずだからだ。
彼=分析者の提案する"議論"は、いわゆる議論とは違った場である可能性がある。
彼が議論と名付け各人を落とし込もうとしている構造は、分析者だけが特権的に各人の発言の真実/真意を知っているような場だ。
発言者の真意はその発言にではなく彼のプロフィールに隠されてあり、それは聞く者(分析者)によってのみ分析的に見出される。発言者は自分が本当は何を言っているか知らない。(発言者の真意を知っているのはそれを聞く分析者=自分だけだ。こういう態度で議論に臨む人いるよね)。
プロフィールの公開は議論の名の下に要請されるが、それは我々の思うような議論ではない可能性がある。
議論の名の下に、人がすすんでプロフィールを公開し分析対象となるよう仕掛けられた罠かもしれず、実名化はその具体的な在り様かもね。
分析者の動機については分析しない。ただ結果的にある権力作用が見出されるだろう。個人的にはこの権力作用に絡め取られるのが不愉快。自己像をある程度コントロールする権利は自分にあってしかるべきと思うからだ。

追記:
以上では、実名、匿名についてのみ語り、固定ID =顕名については語っていない。現実的に議論に発言主体の同一性の確認は必要で、匿名で議論など行えるはずは無いと思う。
実名、匿名、顕名については以下より
匿名とか実名とかについてのメモ
以下は非常に面白い。"繋がり"といっているのは要するに自己の同一性のことだ。
実名・匿名論争が論じるべきテーマはたった一つ:304 Not Modified

あと、フーコーについては思い込みがかなり入って不正確なので鵜呑みにしないように。

*1:ここで相手のプロフィールを儀礼的に無視するということは、要するに相手が何者であるかを勝手に決定しないということ。各人の自己像の決定権を尊重する、と言ってもいい。