本当に本当の自分自身であるだけの人

あーたしかにあるなーー。

どうもネットでは、キツイ言葉で相手をやりこめるのがクール、みたいな信仰があるのか、面と向かっては決して言わないであろう侮蔑的な表現を、平気で書く(というより、積極的にそうした物言いを選んでいるように見える)人がいるが、そういう考え方はやめた方がいいと思っている。

http://d.hatena.ne.jp/kaoru32/20091105/1257398302

確かにそういう人って、ワザとやってんのか素でそうなのかわからない。最近この手の問題?にちょっと興味があり、ダラダラ考えた。もうほとぼりが冷めたらしいので、ちょっと書く。
上はekken氏の物言いが発端で、単に言い方が悪いという風になっているが、ここではekken氏をどうこうということはしない。
ちなみにより詳細?にekken氏の態度はこんな槍玉にあがっている。

しかし「書いてある事だけ読み取ればいい」などという人間の情であるとか常識だとか暗黙の了解みたいなものからかけ離れた考え方は確実に多くの人を傷つけている。今まで散々指摘されてきた事だ。

ekkenさん問題だけども

全体的にヒドい言いようだがw、ここで指摘されるような傾向を、「キツイ言葉で相手をやりこめる」人の特徴として感じている人は多いだろうと思う。
空気読まないとか気持ち読まないとかって言うより、言葉を額面どおりにしか受け取らない、目に見えるものしか受け取らないというふうにまとめている。
これはいわば話し手に言い足りない部分、言葉に表現できない部分があるということを、単に話し手の不備/落ち度とみなす態度だ。そこで対話/相互理解における全ての不備・不都合の原因は話し手(要するに相手)にのみあるように語る。彼らの言い方の「キツさ」は多分ここんところからきている。
行き違いの「責任」と問う形式になるから、「侮蔑的な表現」になる。責任を負うべき「人間」を問うているからだ。自身がなんと言おうと、論理それ自体が問題になっているのではない。ただ相手の瑕疵を指摘したいだけだ。
これは結局、web(に限らない)社会における個人の「責任」をどう解釈するかの問題だという気がする。
一般に、「義務」と違い「責任」は大抵明示されない。つまりこの社会にあって、明示されないものを無視することは、要するに「責任」を無視することになる。
これにより彼はかなり自由になれる。明示的に禁止されていないことは何でもOKとなるからだ。
最近では、いわゆる「新自由主義」における自由がこの種の(暗黙的な責任に拘束されない)自由として振舞った。そう考えればekken氏的態度がサヨクの多い「はてな村」で評判が悪いのもわかるw
ここで責任とは、明示されないという意味で、常識とかマナーとか"空気"といったものに近い。つまり一般にクレーマーとかモンスターナントカとかがこの手だ。
だから、こういうのは別にwebに特有というのでも、そこで始まったものというわけでもない。
以下はちょっと前の、やはりげんなりした例。それを明示的に禁止する文言が無いから、という理由で好き勝手やる人。

でも、そうならなかったのは、少なくとも、あそこにいた人たちには、理性があって、バカの血で手を汚すことの損得を計算したってことだろう。そして、撮影していた奴は、どうにか適当なところで許してくれる集団だろうと、甘えて飛び込んで、バカやったのがすけて見えるのが、ホントに腹が立つのだ。

北沢かえるの働けば自由になる日記

さらに悩ましいのは、これはパーソナリティに依存するのか、この種の態度が内包するロジックによるのか、自分は非常識・無責任な人間ではないと信じていることだ。責任の考え方が違うというか、社会の考え方が違うのだろう。
端的には、各個人はその社会に属する全ての人/関係に対し何らかの責任を持っているのだ、と考えるか、個人はただ自分自身に対してのみ責任を負っているだけだ、と考えるかだ。
後者は最近言われる意味での「自己責任」論の考え方で、普通の社会では「無責任」と呼ばれるものだ。
例えば役人が無責任と非難されるのは、自分の責任を果たさないからではなく、自分の責任しか果たさないからだが、そういう意味での「無責任」だ。つまり自分の属する社会/全体に対する責任を負おうとしない態度だ。
あるいは対話の相手に対する責任を負わない、対話(を展開すること)自体に責任を負わない。社会/関係の維持に責任を負わない。
彼ら自身、明示された文言にのみ厳密にのっとることに価値を見出す態度を「論理的な正確さ」のためと考えるかもしれないが、寝言である。
彼にはプライベートしかない、と言ってもいい。プライベートな「本当の自分」のままパブリックでも振舞う、社会関係を無視した単独者。
その声/論理が社会的な場で発せられるには違和感があるだろう。例え論理的だろうが、それが手前勝手なものでないとは限らない。
仮に一定の価値があるとして、彼の言葉自体に価値があるのではなく、読み手がそれを異見として見出す行為に価値があるというものでしかない。
無論、"芸"としてそれをやるというのは、他人への示唆を意図しているということだ。ekken氏は多分そんな芸風だろうとは思う。
つまり"暗黙的に語っている"のであって、明示された言葉にあまり意味は無い。多少配慮に欠けていたとしても、彼の言葉自体にあまり過剰に意味を見出すべきでない。はいはい、でいいと思う。

おまけ

今回の一連のekken問題を見て、ちょっと「ヴェニスの商人」を思い出した。
ポーシャはシャイロックに対して、血を一滴も流さず肉を切り取れと言う。約束・契約が文字通り履行されることを要求するわけだ。
ヴェニスの商人」は一般にユダヤ的"法"とキリスト教的"慈悲"の対立として解釈されるが、以下の表にある「法的安定性」対「具体的妥当性」の傾向の対照は面白い。上記増田のエントリとも妙に符合するからだが、一般的な傾向としても、あーあるあるって感じで面白い。
シェークスピア と ?法と文学?の研究 - 法の硬直性に対する柔軟性の必要性に関するリチャードA.ポズナー判事の解説