ミニスカは自然に反するから罰せられる

曽根さんの文章は、主語があいまいで、何をいわんとしているのかがよくわからない。たぶん、フェミニズムをバッシングしたいのだろう。だが、もってまわった言い方をしているので意味がわからない。曽根さんは、女性がミニスカートをはくのは、男性をセックスに誘うためだと考えているのだろう。そして、そういう女性は性犯罪にあってもしかたがない、と訴えているのだろう。

ミニスカ論争 - キリンが逆立ちしたピアス

曽野先生の(あるいは似たような連中の)この種の考え方がイマイチ腑に落ちない、というかああいう理路がとても不思議なので、この手の話題の際にはいつも考えてみる。
どういう経路でこういう考えに至るのか、とても興味深いと感じるのだ。
無論この種の発言の反社会性・反倫理性について憤りを感じもするが、それ以上に彼女達のアタマの中が単純に興味深い。
自分と全く違うからだろうが、それを考えることがとても面白いのだ。上ブログは面白いが、もうちょっと突っ込んでみる。
この種の問題では、ちょっと前に沖縄の米兵による強姦事件があった。今回はちょっと印象が違うのでまた考えてみた。
単純に言えば、曽野のような考え方には「女らしい」女という観念に対する強いこだわりが根底にあるだろう。ジェンダーの問題ということだが、彼女らの考える「女」で無いようなタイプの女にとって、それがどのような被害であれ「女らしくない」ことこそがその本質的な原因であり、被害はその代償であると言いたいのだとは思う。

女という存在(の価値?)を「女らしい」かそうでないかだけで判断している。価値のあるのは「女らしい」女であり、それを価値付けるために、そうでない/そうあろうとしない女を何らかの意味・方法で無価値であると刻印しなければならない。
彼女(達)の「女らしさ」への「こだわり」はそういう形で出ている。女らしくない女が社会的に冷遇/脱落することが、「女らしさ」の価値の証である、というような考え方をしている。
彼女らが新聞紙上などで「社会的な発言」を好んでするのもそのためだろう。
だが彼女達の興味は、(性)犯罪そのものや、その社会的な意味にあるわけではない。彼女らの興味は「女らしさ」への評価だけだ。
だからミニスカのような「女らしくない」女への批判=攻撃者という意味では、曽野もレイプ魔も立場は同じということになる。
性犯罪者を免責しかねないような言い草もそう考えればわかる。性犯罪の対象がミニスカであってみれば、要するに曽野の意見/立場の具現化ということになるからだ。
彼女の文章で男性はほとんど発情装置のように扱われているが、実際それはなにか中立な、自然=環境的なものの象徴としての意味を持っていると思う。ミニスカが強姦されるのは、ある偏見や観念、人間・社会関係によるものでなく、単に自然的な摂理なのだ、とほのめかしたいのだろう。
ミニスカは反自然的なものであり、石油を燃やしすぎたら環境が悪化するように強姦されてしまうものなのだ、ということだ。
彼女らの観念における「女らしさ」が具体的にどのようなものかは考えない。どうせありふれた陳腐極まるものだ。
ただ潜在的/原罪的に被害者であり、したがって本質的に庇護される者である、というのは彼女達の「女らしさ」の無視できない要因らしいとは感じる。特に性的にそうだ。
だから例えば強姦があった場合、加害者より先に彼女が被害者である。加害者云々の前に、まず彼女があらかじめ本質的に被害者だったのだ。これが、女性に対するあらゆる性犯罪を被害者に帰責する際の根拠で、加害男性がほぼ無視されるのも同じ理由だ。。
被害者がいるから加害者がいる。この転倒した理解が被害者を責める際の論拠で、つまり女の存在こそが全ての性犯罪の原因である。
だから「女らしさ」は別に性犯罪被害を回避するのに役立つわけではない。ただ庇護される者として事後の申し訳が立つというだけだ。
そして曽野が新聞のコラムで性犯罪を語る際に「女らしさ」を持ち出すとしたら、犯罪の社会性について語っているのではなく、ましてやそれを回避する方法について語っているのでもなく、単に全ての女性に「女ならば性犯罪被害を受け入れるものです、ただし美しく」と言っているだけだ。*1
これをマッチョ/男性的な論理と言っていいかはわからない。
現実に性犯罪の多くは男性が女性を襲うもので、この変わらない現実を上の観念は上手く説明/説話する。要するにおとぎ話であるが、セカイ理解の方法でもあるかもしれない。
そこでは「社会」という水準が無視されている。トンデモ保守さんたちに良く見られる傾向だが、個人(共同体)と国家の観念はあるのに、(近代)社会の概念が無い。
でも通り魔的な性犯罪は社会の水準で起こり、曽野が例示するようなのがまさにそれなのだが、これを社会問題として見る視点を持ててない。代わりに語るのが「自然」的摂理についてだ。*2
近代社会にあって、もはやいかなる意味でもトンデモである。
この「自然」は、私的なレベルで語られる分には何の問題も無いと思う。例えば母が娘に、夜中に盛り場をミニスカはいてウロウロしてんじゃないよ危ないよ、というのは完全に正当だ。例のコラムの末尾もそういう話だ。
だがそれは社会的な広がりを持った言説としては通用しない。現にある性犯罪を肯定することにしかならないからだ。
チカラの弱い個人レベルでは現実を受け入れるしかない、そのための説話ではある。それはやむを得ないが、だがそれがあたかも社会的に正当であるかのように語ってしまう心性は、一体なんなのだろう?
ネトウヨがそうであるように、弱い自分の失われた自尊心を想像的に回復しようとする試み、ということなのだろうか? 曽野先生が?

*1:実際、男性批判者のように性犯罪被害自体を徴付きとみなすわけではない。性被害は女の属性なので、重要なのはその受け入れ方だ。

*2:この種の「自然」の不自然さや歴史性については語り尽くされている。