ジェンフリと画力の貧困な絵師

特に西欧人と比べると、なのだが、日本人の場合、体型が男女とも中性的というか、性差が特徴的でない。体毛も薄いしね。
この男女の体型の差異の小ささというのは昔からそうで、古い日本人の写真なんかを見ると特にそう思う。化粧の問題だろうか、顔もほとんど同じで男女の見分けが難しい。
実際日本人には、自分達の素の体/外見に関して、ぶっちゃけ性差はあまり無いという意識はなんとなくあったのではないかと思う。
無論理想的な男性/女性のカラダ(そこでの男女の体型的な差異)の観念はあったろうが。
例えば浮世絵とかを見てると、男女のカラダや顔の性差による描き分けがほとんど無いことがわかる。
わかりやすい例が春画で描かれる男女のまぐわいの場面で、大抵男女とも着衣のままで服を脱ぎ捨てていない。全裸でまぐわっている画などほとんど無い。
これをちょっと気の利いた美術評論家だの文化人だのは、江戸人の性文化・性技の豊かさの表れとかなんとか適当なこと言うのだが、エロ同人やってるオマエラならそんなのウソだってわかるよな。
そう、男女を描く時、服を着せないとどちらが男でどちらが女だかわからなくなるのだ。*1
同人の場合は単に画力の貧困の問題に過ぎないが、春画において、それなりに画力のあっただろう絵師さんたちのチカラをもってしても、全裸の日本人男女の性差を特徴的に描き分けることができなかった。無論浮世絵の技法的な問題もあったろうが、多分本当に同じような体型だったのだと思う。
この傾向は特に欧米人と比べると顕著で、例えば丸刈りにしてTシャツ・ジーパン姿で並べると、日本人の場合、遠目には男女の区別がつかない。要するにシルエットにあまり差が無いということ(最近はそうでもないかも)。
だから日本人女性は、自らの女性性は、その身体ではなく社会記号によって維持されていると感じている。(無論男も同じだろう。ただ人はデフォルトで男であるというのは結構広く共有された観念だと思う)
日本の女子が(社会人でさえ)妙にフリルやリボンのついた服を好むというのは良く言われることだ。欧米に限らずアジアと比べてもそれは顕著で、これは成熟の拒否と説明されることが多い。例えばリカちゃんとバービーの差にも同様の傾向がある。(リカと比べるとバービーは性的に成熟しており、職業を持ってもいる)
だがそれらはたぶん成熟というより単に記号の問題で、身体においてでなく記号によって彼女らは女になっているからだ、ともいえる。仮にそうなら自己イメージ=映像を記号的/意味的に読み取ることが彼女らの自己意識につながっていたりするかもしれない。
まだウーマンリブなる語があった頃、アメリカ式のリブが日本女性に広まらなかったのは、この身体の差によるみたいなことを聞いた事がある気がする。(ソース無し。脳内かも)
アメリカ人女性にとって、自分が女であることは、その見られる身体そのものにおいて自明であり、そうであるがゆえに決して失われないものだが、日本人女性にとっては、社会的記号を消し去ると、自らの女性性が失われかねない。
アメリカ女性は、その社会的性役割/記号を全て投げ捨てた上でも、自分(のカラダ)は依然として明らかに誰から見ても女であるが*2、日本人の場合、それをしたら自分が女に見えなくなる。
アメリカのリブ達は、いくら男性並を言ったところで、自分が女じゃなくなるかもなんてことを本気で心配する必要はなかったのだ。両性の動かせぬ違いを前提にした男女平等だったわけだ。
他方、ジェンダーこそがセクシュアリティであるような状況で、たぶん原宿あたりの世界一おしゃれな女の子ファッションは生まれているのかも。
だとすると、ジェンダーフリーに対する拒否感には、保守的な男女観(性役割)に基づくものだけでなく、(特に女性達による)自己意識/認識の問題があるのかもしれないが、そこらへんはフェミ界隈で言い尽くされてそうだな。。。
ジェンダーは別に服装の記号的意味("女らしい服")を問題視しない。フェミニンでかつジェンフリというのは可能だし、実際いくらでもいる。が、そういう分け方が難しいと感じる人もいるだろう。そういう人は要するに絵が下手なのだと思う。

*1:エロ同人連中が制服が好きなのは多分フェティッシュによるものではない。制服は端的に性差を表現してくれて便利だというだけだ。巨乳も同じ。貧弱な画力を補うために多用され、その後それが偏愛に基づくかのように錯覚されている。

*2:実際にそうだったというより、そう観念されていた、ということ。