ナショナリズムとサッカーとその結び付きの凡庸さ

セルフまとめはイタい事が多いが、これは良いまとめ。少なくともまとめ主(id:murishinai)の主張が非常によくわかる形で説得的にまとめられている。(これ、もう一週間ほど前の話なのね)
サッカーにおけるナショナリズムと“日本代表の敗北を喜ぶこと”の是非について - Togetter
ここにおいて一方の地下猫氏に関しては、その主張が体系的・網羅的にまとめられているかはわからない。なので彼の主張の評価は保留するしかないが、それでもいくつかどうしても看過できない発言があったので多少。

そのほか、これに関連する最近の気になった話題も。
日本代表(選手)の敗北を喜ぶことと、日本におけるナショナリズムを批判することの間には妥当な必然性があるか? という問いにはここでは踏み込まない。そんなものある訳がないからだ。
五輪やW杯のようなスポーツの世界大会が大抵はナショナル/ネーションと結びついているのは間違いのない事実で、それは単に国別対抗という体裁を取っているというだけでなく、それ以外の可能性を排除しているということに見てとれる。
W杯のそのような運営方針自体がナショナルを前提しており、その意味でナショナリズムとの結び付きは不可避と言ってもいい。
しかしそれはFIFAの(体質の)問題であって、サッカー/スポーツの問題ではない。誰でもそんなことなどわかっているというような顔をするが、実際にわかってるかは怪しい。
サッカーは(たとえば「個人」がそうであるように)、それ自体としてはナショナルを超える可能性を持っている。現にナショナルなものとの結び付きの中で存在しているにせよ、それがサッカーの(あるいは「個人」の)全てではない。それはナショナルと全的に不可分に結びついているわけではない。ましてナショナルなものがまずあって、それによって初めて存在しているようなものではない。
だがそのように語る者はいる。それは「ナショナリズム」と呼ばれる語りで、国民は国家があって初めて存在する、あるいは国民と国家の結びつきの必然、運命、自然性を、さらにその特権性を言い立てる。
それは誰も本来的には「たまたまそこに在るすぎない」という事実が強力に否認される。
そのような語りには、よく知られたうんざりするような文句の他に、以下のようなものもある。

これはナショナリズム批判、およびナショナリズム的体質を持つFIFA/W杯批判として言われている。それは現状の認識として正しい。
そしてそれは「現実」であるが故に「前提」だという。
ここに詐述が滑り込んでいる。それはスポーツとナショナリズムの宿命的な結び付きを捏造するものだ。
端的に言えば、上記ツイートのスポーツ/サッカーを「個人」とでも置き換えて読めばいい。ナショナリストが泣いて喜ぶロジックになる。
スポーツには(「個人」には)ナショナルを超える可能性があるが、それがここでは強力に否認されている。彼は別のツィートでその種の「可能性」に余地を残しているかのようにも見えたが、ここでトータルに否認されている。それは単に言葉にすぎなかったのだ。
言葉ではなく、既にある「事実」こそが特権的に「宿命」を証し立てていると語っている。批判的文脈であるかは問題ではない。
ナショナリズムは、その単純な批判者と共犯的・相互補完的に自己を形成していくからだ。
それ以外に面白かったのが以下と、そのブコメ
ゲームに登場する女性キャラはいかにして性の対象として描かれているか? - GIGAZINE
この、単にゲームにおける女性記号の取り扱われ方(消費のされ方)を示したものだが、ジェンダーフリー、あるいはポリティカルコレクトネスへと反射的に結び付けられて理解されている。
まあこの手の分析や主張は告発調になるのが普通なので、告発されたと感じがちな側がうろたえるのは当然なのだが、ここでは特に何かが告発されてるわけではない。改善が要求されているわけでもない。
単に事例が列挙され、その意味が解かれているだけだ。
そこで現に何が表象されているのか、その啓蒙が目的の動画/エントリと言っていい。
その表象の意味・意図が解けないと、そこにあるものは現にそこにあるという理由で「自然」で「必然」であり「正当」であると理解されるからだ。そのような不用意さ・思慮の無さに対して、単に批判的であることは時には逆効果である。
あとこれ。
http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/191681.html
アレントはたぶん保守的な人物だが、そうであっても全体主義を拒むことは可能で、それはナショナルな表象に超越性を、なにか不思議な力があると認めないことだ。
ナショナル/ネーションに自己を投影・従属することは近代社会においてありふれており、そしてその深さのない陳腐さ・凡庸さこそが偏在する悪だと言っている。この表層しかない悪にわかりやすい批判を対置することはできない。それもまた凡庸さだからだ。

 アーレントはそうした悪に抵抗しうる可能性として、思考すること、考えることを追究します。「ものごとの表面に心を奪われないで、立ち止まり、考え始める」ことを彼女は重視しました。

http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/191681.html

最後に
当初ザッケローニの日本代表メンバーだった李忠成は元在日韓国人で、過去に日本(五輪)代表になるために日本国籍を取得している。無論彼が単に「李忠成」としてサッカーを続けることを阻むのはFIFAの都合であり、彼が日本国籍を取得したとしてもそれはナショナリズムへの従属でもなければ加担でもない。
むしろそう見るのは、ナショナリズムに何か超越的な力を見ようとする者だ。このナショナルなものへの鈍感さ・凡庸さこそ批判されなければならない。
それは李忠成という「個人」を「李忠成」としては見ず、単に日本人/韓国人としてのみ見るような態度だ。これがナショナリズムでなくてなんだろう。
だがその問題は、それこそがナショナリズムへの加担であるというよりも、現にブラジルに在るナショナルを超え得るかもしれない「個人」や「サッカー」の「可能性」を粗雑な二分法で塗りつぶしてしまうことの方だ。
『そんな「可能性」など、「現実」の前では言葉にすぎない。』
このありふれた詐術は、そもそもナショナリズムこそ言葉によって語られているにすぎないということを、むしろ「個人」や「サッカー」こそ言葉以前に存在しているということを、発話者自身にさえ忘れさせる。