論理的であり無力であることのルサンチマン

ちょっとおもしろかったので。
ニーチェに関する一般的な理解はこのようなものだろうか? 個人的にはよくまとまっていると思う。おおむね自分もこんな感じで理解しているような気がする。
「なぜ人を殺してはいけないの?」に、ニーチェがマジレスしたら:誰が得するんだよこの書評

まあ実際のところ、ニーチェが言う真理/偏見/信仰は要するに具体的にキリスト教を指している。
キリスト教における「真理」がキリスト教的に偏っているのは当然で、またそれはキリスト教に限らないことも、別にニーチェに限らず言っている。
ニーチェが言っているのはキリスト教的な権力の源泉=「真理」とはどのように生まれるかということだ。
「真理」はぶっちゃけ単に信仰だの偏見だのに過ぎない、物理力(フィジカル)を持たない観念に過ぎないのだけれど、現実にはそれが厳然たる力(強制力)を持つ。
誰も「真理」を踏みにじることはできるけど、その個別的な行為は結局「真理」の普遍性・超越性に傷をつけないわけだ。

しかし悲しいことに、どちらの主張も、それが自分たちの《信仰》から生まれていることに気づきませんでした。結局この議論は、論旨とは関係なく声の大きな意見が勝ち残るという、きわめて政治的なゲームとなりました。

「なぜ人を殺してはいけないの?」に、ニーチェがマジレスしたら - 誰が得するんだよこの書評

だが実際のところ、信仰の強さ・声の大きさが彼らの「真理」を勝ち残らせた、という単純な話でもない。
普遍的な力を持つ「真理」がいかに可能だったかというと、要するに現世的(フィジカル)な強制力に対して徹底的に「無力」であることによってだ。
自分が現実の世界で弱く無力であることが、観念において、つまりより高次の次元(メタ)において反転する。精神の肉体に対する優位はギリシャ時代から言われているが、まさに現実において無力であることが、精神においての強者であることの証しとして語られる。キリスト教は迫害されていたが、受苦こそが「真理」の証しなわけだ。
だからキリスト教者は、自らは無力であると言い、そう言うことで形而上的な強者であろうとする。だが形而上的=道徳/倫理的に強いということは、結局は現世において影響力を持つということだ。それは現世的な価値観だからだ。
無力・非力であることが「真理」の唯一の証しであること、真理であるならば現世的にも一定の影響力・権力を持ってしかるべきことが暗に主張されている。
このねじれた「力」への迂回路、徹底的に弱者を擬態することで実質的な強者たろうという陰湿な戦略をニーチェは「ルサンチマン」と呼んでいる。
「権力」から遠く離れているようでいて、それは執拗に権力を志向する回路である。
だからこそid:finalvent氏による以下の批判になる。

「「人を殺してはいけない」という道徳が単なる《信仰》」というのではなく、それはある共同体の「掟」の問題としてしかニーチェには見えないだろうということで、「吐き気がするほど感情的な反発」であれそこから離脱するとき、ニーチェが問うのは、またしてもそれはルサンチマンの回路に陥っていないか?ということ。ややアイロニカル言えば、「私には政治ゲームの勝者があまり幸福そうに見えないのです」はニーチェの嫌悪するキリスト教倫理者の言葉に似ていること。

最近はやりのニーチェかな - finalventの日記

これは別にキリスト教に限らない。弱者(例えば数的、民族的、経済的、人種的、性的な)が、自分が弱者であるという事実を政治的強者として振舞う方便に転用する例はいくらもある。弱いという自己規定で、道徳的正しさと一定の政治力を持ち得るわけだ。
例えば今、日本において現実的な力をあまり持たず、そうであるが故に形而上的な真理をもっとも自称しやすいのは多分"科学"。つかもっと広く論理とか論理的とかってやつだろう。
論理こそが何らかの真理なり真実なりを語り得るって意見は、現在もっともカジュアルな信仰告白といえる。
少なくともネット上で見る理系の皆さんの(文系?)社会=権力への呪詛は、自らの論理的=超越的・形而上的な思考の正しさの(よく考えたら何を根拠にしているのかわからない)確信に基づいている(検証可能性? それが何?)。
これは彼らが現世的弱者であることの反映で、真理とか何とか言いつつ政治力への隠微な欲望が隠されている。
ニーチェ的には、おそらく論理的、合目的的な思考こそ(が真理であるとすることを)ルサンチマンとして退けるだろう。メタがフィジカルを拘束・規定するという転倒した発想そのものをだ。ここで宗教と科学は別のものではない。
ただ、そのような不健全な態度が、フィジカルな権力に対する対抗的な立場であることを超えて、全面的に展開しているのが(19世紀)キリスト教社会/そこにおける倫理観であるというわけだ。
ルサンチマンってのは、少数者、弱者が持つものとしてはまあ理解できるものだが、現実に力を持つ強者がなお抱き続けるってのはタチが悪い。
え? 殺人? ニーチェ的には問題視しないと思うよ。問題視するとしたらその動機、およびその動機の構成のされ方かな。
だが重要なのは、この問題は論理的/科学的には解けないということで、それを論理的に解決しうるとする立場は(あるかどうか知らんが)、要は特権的に真理を独占しようとする、現在においてかつてのキリスト教たろうとすることだ。
ただ現実にそれを成し遂げるほどには、日本の草食な理系の人たちはそんなにルサンチマンが強くないということは言えそう。