そりゃ科学ったって信仰するしか無いわな。素人は。

先のエントリについてちょっと引きずる。補足ではない。
科学を信仰してもいいよ。それが本当の科学ならね。:Skepticism is beautiful

ニセ科学批判批判で「素人には科学の成果が正しいかどうかなんてわからない。科学科学って言うやつも、結局のところ科学の出した結果を信仰してるだけ」なんて話をよく聞く。なんというか、もう科学なんか信仰しちゃっていいよ。本物の科学なら。
上では「科学の出した結果」の真偽について言っていて、確かにこれは素人には究極的に確定的なことは言えない。言えるとしたらそいつは素人じゃない。その意味で信仰しちゃっていいよ、というかするしかないのは本当だと思う。
しかし何を本物とするかは微妙。その判断は素人たる自分がしなければいけないから。
素人としては、その結果は専門家により専門的な手法によって導かれたと信頼するほか無い。
むしろ上ブログでは、その検証くらいは素人でも可能だ、と言っている。
日本人の多くの部分が高等教育を受けており、また情報へのアクセスがかなり開かれているこの国では、誰でもそれくらいはできそう?
それから、本物の科学をやってる科学者でも、自分の思い込みで、科学とは全く関係ないこととか専門外のことまで、知ったように語ることがある。これも、僕らは見定めて信用しないようにしないといけない
専門家(大抵は学者だろう)が専門外のことについて語る、ということをどのように見るかも確かに微妙なところ。
大塚は以下のように言っている。
大塚 南京虐殺があると思っているんだったら、知識人であるはずの東がなぜそこをスルーするわけ?知識人としてのあなたは、そのことに対するきちんとしたテキストの解釈や、事実の配列をし得る地位や教養やバックボーンを持っているんじゃないの?
東は歴史学に関して素人だが、「知識人」なのだから南京事件の有無という「結果」について言えなくても、歴史資料等よりテクストのレベルで検証しうるのではないか、と言っているように見える。
ただこれはあまり意味が無い。その方法によって「結果」に言及できるなら、東は「専門家」である。というより、専門家でない人間のアクセスできる情報をテクスト的に解釈することに何か意味があるか? というのはポストモダニストならば持って当然の疑問だろう。
つまり素人に専門家の仕事の検証ができるか? ということに東は二の足を踏んでいる。
テクストの解釈では「結果」に迫れないというのが東の考えだろう。
ここで東は「専門家」とは生情報/一次情報への直接アクセスが可能であることだと言っているわけだ。公開されない情報へ直接アクセスできないなら、断定的なことは言えない。彼は「知識人」の「責任」をそう考えている。(東がブログでぶっちゃけた体験談を書いたのも、要するに自分はオリジナルへのアクセスが貧弱なのだ、ということを言いたかったのだろうか?)
ただ公開された情報からは、どう考えても南京事件はあったし、そう言うことも可能だろう。例えばそう言っているブログなんかもたくさん見つかる。彼らが無責任とは言えない。
ただ彼らは(東の言う)「専門家」ではないということだ。
では、一次情報に直接アクセスしているわけではない彼らが言っていることは何だ? 信仰か? 科学か? ただのテクスト解釈か?
いずれにせよ、彼らの行為は(個人的には)価値のあることだと思うが、それはどのような価値だ? 専門家の仕事を擁護する、といった価値か?
科学を信仰してもいいよ。それが本当の科学ならね。:Skepticism is beautiful
科学の成果というのは、万能には程遠い人間がもがいた末にたどり着いた「いまのところこれ以上確かな事は言えないな」といったもの。それ以上に確かなことを知ってる人なんていないんだから、別に信仰しちゃったって問題ないよ。
その価値は社会的なものだ(科学それ自体とは関係ない)、という意味と受け取っていいと思う。だから「信仰しちゃったって問題ないよ。」というわけだ。ただしイケメンに限・・・正しい科学に限る、ということで。。。
なんだかわからなくなってきたので多分続く。。。