東京と南京とソウル

名古屋の河村市長が(彼自信が後に語ったことによると)誤解を招くような発言を、わざわざ南京に出向いてしてきたのがちょっと前。
まあ「誤解」そのものを焦点化することでしか、もうこの問題は「問題」としての体裁を保てない程度には歴史的に確定しているわけだが、それでも「南京虐殺は存在しなかった」の後に小さく「か?」と書く往時の東スポ的手法が、未だそれなりに売上に貢献すると信じているのだろう。
この問題/事件自体は発生当時から既に広く知られていて、普通に報道されてもいたのだが、今日のような「問題」として表れてくるのは戦後しばらく経ってからだ。
特に国際問題としては中国側がこれを大っぴらに問題視し始めた80年代から。そもそも歴史学的にも70年代以前は南京の虐殺は「問題」としては存在していなかったし、それ故にか否定論も存在していないと思う。
この種の問題には他に韓国の「従軍慰安婦問題」があり、これも実際にそれが起こった時期と、それが問題視され始める時期に大きなズレがある。
この種のズレは「捏造説」の論拠の一つだが、たとえば慰安婦問題に関していえば、この時間のズレは韓国における慰安婦(に限らず性犯罪被害者一般)に関する抑圧的な価値観に由来しているとされる。要するに差別や偏見が怖くて名乗り出られなかったというものだ。
個々の元慰安婦が、被害を訴え名乗り出ることができるようになるまでに(それこそ何十年という)長い時間がかかっている。だがそれは個々人が抱える内面的な葛藤や苦悩・恐怖を乗り越え、偏見や蔑視と闘う決意を持つまでに時間がかかったから、というだけではないだろうと思う。

事実の可視化

韓国におけるフェミニズムがどのような歴史的経緯を持つものか知らないが、「従軍慰安婦問題」はおそらくフェミニズム的な知見をもとに問題化されている。
デートDVが犯罪であり、セカンドレイプが犯罪であり、セクシャルハラスメントが犯罪であるように、「従軍慰安婦」制度自体が「性暴力」であるという明快な措定が、個々の元慰安婦の内面的な悲劇に過ぎなかった私的な経験を、公的な「犯罪被害」として語ることを可能にしている。
無論当時の制度/法に照らしてもそれが違法行為であったことは指摘されているが、しかし元慰安婦が晒されていた問題とはそういう事ではない。
明確な名称を与えられず、「結局憎しみとか恨みとかの問題だろ?」とされかねなかった事柄を、普遍的な「人権侵害の問題」として確立することに成功したのはフェミニズムの功績だろう。「性暴力」という概念を用いてだ。
多分フェミニズム以外のどんな論理でも、例えば既存の戦争犯罪の理路でも、元慰安婦は「不運で可哀想な犠牲者」を超える立場を獲得できなかっただろう。
逆にいえば、「慰安婦問題」が戦後長い時間がたってから突然浮上してきたのは、フェミニズムの登場以前にはそれを問題として構成する論理が存在しなかったからだ。個々の慰安婦の「決意」に時間がかかったという個人史的な問題ではない。
(だから当然フェミニズムに対して今も存在する一般的な反対論が、慰安婦問題に関してもほぼ全て揃っているだろう。だからそれは日本側に限らない。彼女らのスタンスは例えば韓国の元軍人などには評判が悪い*1

問題を見出す論理

歴史を現在の価値観で見る(裁く)べきではないというのはよく聞く意見だが、彼女たちの悲惨を「被害」として問題化することができるようになったのは、戦後における価値観があるだろう。
ただこの「価値観」は単に感情的、感覚的なものではなく、論理的に形作られている。逆に言えば「論理」がないところでは、どのような悲劇も不条理も、単に情緒であるにとどまるだろう。
3/10は東京大空襲のあった日で、それ関連のツイートもタモさんあたりを発端にいろいろなされているが、個人的に非常に違和感があるのは、それを悲劇としてしか語れていないことだ。

東京大空襲 - Togetter

個人的には東京大空襲も広島・長崎への核攻撃も、あるいはシベリア抑留も、端的に「戦争犯罪」であると考えるのだが、そのような語があまり出てこない。これはネット上に限らないし、今に始まったことでもない。
あれは戦時下においては仕方がなかった、それが戦争ってもので、そういったことも含めて自分たちが戦った戦争だったんだ、そんなトーンが支配的。悲惨を美しい記憶としてしか語れない。
敗者だから? 日本人はお人よしで本質的に善良だから? 戦後の日米のチカラ関係の反映?
だがそれらがすべて事実であったとしてもなお、犯罪として説得的に示すだけの材料を、それを見出す「論理」を持つことはできないか?
それがないから、単に情緒の問題としてしか、私的で個人的な悲劇としてしか語れない。あるいは天災であるかのようにしか。

慰安婦問題にしても、戦後になって何か新しい材料が出てきたわけではない(まあ被害者の証言はのちになって出てきたが)。既にある材料だけで、それが犯罪であったと示している。
「性暴力」という視角が無かったころには軽視・無視されていた事実を拾い集め、それが人権侵害であったことを立証しようとしている。
材料は既にある。事実は既に単にそこにある。それは現になされたからだ。
ただそれを構成することができず、また名付けることができなければ、美的/悲劇的に語られ忘れ去られる私的な感傷の断片に過ぎない。
「原爆はより多くの両軍将兵の命を救うために必要で正当だった」などという粗雑な「論理」にさえまともに対抗できていないのは、たぶん日本人が核被害を情緒的にしか把握できていないからだ。
私的な憤り(これには正当な根拠があるはずだ)を持つ人は多いと思うが、それを言説へと構成できず、ただ「ソ連への牽制」「人種的偏見」といった陰謀論まがいのレッテルを(彼らから見えない所で)貼り付け、溜飲を下げるしかないなんてことになる。
あるいは、人類全体の災厄(!)として語ることになる。
それは当時においてすら明らかに犯罪だったのだ、と現在において「発見」することは、別に現在を過去に遡及して適用することではない。DNA鑑定の精度が上がったことによる「発見」は、別に現在を過去に不当に適用することではないように。

*1:ウヨには一般に評判の悪いフェミニズムだが、現実的にはフェミはナショナリズムとかなり相性がいい。少なくとも政治的にはそうで、たとえば日韓のフェミは互いを自国のナショナリズムの権化のように見なしているが、そのような対立自体ナショナリズム的なものだ。