べ、別にゲーム脳を擁護してるわけじゃないからね。

ちょっと前に小中学生の携帯所持禁止を大阪府知事が言って注目を集めたが、国レベルでやるらしい。(まあ、学校に持ってくるなという話だろうが)
最近も携帯がらみのイジメで女子中学生が自殺しており、さすがに看過できないと感じる人が多くなってきたのだろう。
ただ禁止は短絡かもしれないが、イジメを構成する要素(つまり原因の一部)として携帯を名指し、一定の規制をすることはありだと思う。
よくある言い分に、では包丁で殺人が行われた場合に包丁を禁止するのか、というのがある。包丁は単に透明/中立な道具に過ぎない。殺したのは包丁ではなく人だ、とする理解だ。現実的に、包丁が無ければ他のもので殺しただろうと。(実際、件の中学生もリアルの学校生活そのものでいじめられていたようだ)
そういった観点からは、これは単なるバッシングで、この手のバッシングの対象は最近だけでも、バタフライナイフだのエロゲだの匿名掲示板とかwinnyもそうか、それに携帯も加わるのか、またゲーム脳理論かよ、と。

この種の(本質的でないものの)規制を行う理由は、普通に考えて二通り。
まず、未成年が関与する場合に、人ではなくそのモノを批判の対象にするということだ。
これは当然、未成年は完全な主体者ではないという認識に基づいており、考え方自体に問題は無い。未成年に責任は問えないし、責任能力も無いとみなされている。
むろん当の未成年的には、ゲームと現実の区別がつかないとかバカですかwwてなもんだろうが、まあ発展段階の途上にあるというのは厳然たる事実で、彼らは自分が思うほどには成熟してもいないし自分をコントロールできるわけでもない。
実際、未成年者自身の責任を問おうとしても「なにせコドモのしたことなので、、、」と言われれば終わりである。
そういった観点からは、彼らに自省/自制を期待できないので(能力的にというより、社会制度的に)、モノのほうを槍玉に挙げるというのは手続きとして正しい。
それがオトナの責任っつーことか。(両親の教育的無能力をあげつらうのもこの一種だろう)

もうひとつが、例えば社会的な犯罪が(犯罪は社会的なものだが)、特定の誰かの"自己責任"に完全に帰せるのか? という点についての疑念かな。
犯罪の真の原因は犯罪者に内在するのか、社会構造的なものか、というのは永遠に解けそうに無い問いだが、現実には個人の責任が問われる。おかげで自動車や包丁が殺人事件の原因として規制されることは無い。
当たり前だが、原因と責任は別の概念で、人に問われるのは責任だ。だがこれを混同する人がいる。
例えば犯罪予告とかで匿名掲示板がメディアの槍玉にあがる時、バカなオトナがインターネットのような未知のものに怯えて叩いているのだと短絡する前に、未知なのはその犯罪原因を構成する要素なのであって、いわばその社会関係そのものが未知/不可知なのだと思ってみたほうがいい。
この不可知性は結構やっかいで、というのは、わからないことと無いことを同一視する人間というのは少なくないからだ。彼らは個々の犯罪から社会/環境的な要素を捨象し、犯人の自己責任として済ませてしまう。
なぜだか知らないが、どうもここで原因と責任の混同が起こるらしい。原因を"主体の責任"に帰してOK、という理解の仕方をするようだ。あるいは原因などどうでもいいということかもしれない。
いずれにせよ"原因"が捨象されるわけだ。
これは彼らが、自分こそが事件の当事者=被害者だと感じているからでは無いか? と最近思っている。当事者/被害者なら犯行の経緯や背景などどうでもよく、責任をこそ追及したいだろうし、それは無理もないことだ。過度に当事者、とりわけ被害者に自己を投影しているのかもしれない。*1
犯罪を考える時、原因を考えず責任のみを問うことに意味があるだろうか?
例えば司法においては最終的に個人の責任を問うことになっている。そこでは原因=事実性の解明は最終的な目的では無い。
だがメディアが(あるいは当事者で無い者が)客観的に犯罪を語る場合、個別の犯罪に共通する形式/構造を見出せるなら、それを社会問題として取り上げるのは当然だろう。
そこからゲーム脳理論になる、というのは飛躍しすぎだ(つーかアプローチが間違ってるw)が、単なる責任論を離れた観察というのは必要だろう。
(無論、司法においても背景要因は考慮されるわけだが)
現実に想定され得る環境要因が捨象されてしまうと、個人に過度の自己責任が科されるという、最近他の所で見ないでもない状況は起こり得る。
実際、現場を離れた単なる語りの場での(メディアであれブログであれ居酒屋での雑談であれ)、社会的な要因を無視して、単に責任のみを問題にする過度に司法的な態度は、単なる事故さえも(あるいは犯罪被害さえも!)完全な"自己責任"として審判しかねない。
近年の日本の犯罪は一貫して減り続けているそうだが、それは司法が一貫して犯罪者個人の自己責任を求め続けてきたから、というより、社会構造の変化によるものだと考えるのが自然だろう。
そして当事者でない、ということには限界のみならず固有のメリットがあり、それは客観的に見る/語ることができるということだ。逆に言えば、事実に対する客観的な構造分析が無いなら、第三者が語る意味など無い。
無責任な第三者なればこそ、ある事柄に関して"自己責任"論ではない何かを語りうるともいえる。

*1:だが、事象の最終的な解決は、ある具体的な個人の"責任"を明らかにすること以外ではないという感覚は彼らに限ったことではない。私たちはそれ以外の解決の方法を知らないと言ってもいい。そこで"原因"を問題にし解明しようとすることは、蛇足・回り道だと感じてしまう場合は誰にもあるだろう。