では何が差別ではないのか

多分広義の「攻撃」は、もっとも原初的、というか単純/低レベルなコミュニケーションの方法で、まったく未知の何者かとコミュニケーションをとる必要のある場合、どうしても攻撃的な態度になるのだと思う。
というようなことを、以下のエントリをツラツラと見て思った。
アイヌ差別についてのブクマを全力でまとめてみた:E.L.H. Electric Lover Hinagiku
ブクマをまとめるというのは結構新しい。(そうでもないのかな?)
アイヌに限らず、これと同型の問題を語るとき、それについて知らない、自分の周りにいないんだけど、みたいな人が結果的に攻撃的な態度になるのは、そういうことかもしれない。
そういえば例の「あなたとは違うんです」についてどう英訳されたか、というエントリをみると面白くて、
「あなたとはちがうんです」って、どう英訳します?:[間歇日記]世界Aの始末書
どうやら我々は、単に違う、という事実に対して一定以上の違和を見出すようだ。
「違い」を吸収するような社会的文脈/方法論が無いからか、「違和」は社会的な「セーフティネット」をすり抜けて個のレベルにまで直に到達するかのようだ。実際、人によっては、他者の概念を想起しただけで落ち着きを失ったか、恐慌状態かと思えるようなコメントもある(笑)
「違う」存在を意識するだけで、原初的なコミュニケーションにまで退行するのは、ある種の違和感/危機感の裏返しのようでもある。
そういう状況に慣れていればいいのだろうが、現にそうではないし。
一般論としても、慣れない場/状況で理性を失わず平常でいるためには、教育/訓練しかない。経験の不足からくる不安を理性で押さえ込むしかないのだ。
これは社会的な取り組みとして行う必要があるものだと思う。無論「差別はよくない」ということは教育/啓蒙されているわけだが、この種の他者への不安感を理性が抑えられないのは問題だと思う。
実際、同エントリへの以下のコメントを理性の欠如というのはちょっと違う(まあ理性は感じられないがww)。教育/啓蒙に具体的にイメージできる「差別対策」が示されていないことを言っている。

意識すりゃ差別、意識から消しても差別。
保護しても弾圧しても放置しても差別かよw

つまるところ結論なし。
有効な差別対策なしだな。
ほっといて風化すればいいんじゃね?

攻撃はもっとも低次元なコミュニケーション形態だといったが、人は普通もっと高度で洗練された方法でコミュニケーションを取ろうとする。ただ高度なコミュニケーション方法は社会的な文脈によっているので、一定の知識や経験が共有されていることが必要だ。
では、前提を共有しない他者とのコミュニケーションについて何が可能なのか、ということを具体的に想起できないと、上のような呪詛めいた繰言になる。だが、それは彼だけの問題じゃない。
実際、他民族との付き合いについての具体的なイメージ化については、本来なら社会的/政治的な啓蒙・広報の問題だろう。
それが無いまま問題が個人のレベルまで直に降りてきて対応を求められるから、上のような恨み節になる。彼が列挙しているのは、彼の知っている限りでの他者との係わり合いの方法である。これは広義の攻撃(一方的・単線的、という意味で)と言えなくも無いが、これ以外の具体的な方法を想起できないのは、一概に彼の(思想の偏りの)せいではない。あれもこれも差別ならじゃあいったいどうすりゃいいんだ? というのは素朴に思うことだろう。誰も教わらないことは何もわからないからだ。その意味でこれは不安の表明でもあり、社会全体でこの種の問題に不備であるということの反映だろう。
多分この種の不安を抱えない人はこの国にほとんどいない。
だから現実的な差別的行為/ヘイトスピーチに至るギリギリまでは、現状で仕方ないと言ってもいいと思う。民度という言葉を使うなら、民度が低いのだ。
これは啓蒙の不足と言っていいのかもしれないが、何が差別なのかについての具体的なイメージを描けないことが原因のような気がする。
他方、意識的に差別的な人は常に一定数いるだろうが、そういうタイプはある意味問題ではない。
(無論個人レベルでの付き合いではこのような問題の表れ方はしないわけで、啓蒙における、例えば人種というカテゴリ同士のコミュニケーションという抽象的な問題の立て方自体がこの種の問題の根源かも)


以下、その他いくつか目に付いた(面白いなーと思った)意見について。
メディアが差別意識を再生産しているという意見が結構あるようで、実際そういう効果もあるだろうが、忘れてはいけないのは、差別はメディア以前に(メディアが無くても)存在しているということと、ほっておけば差別意識が風化消滅していくかのような感覚(現実?)はメディアによる啓蒙の結果だということだ。
この種の啓蒙的な報道抜きに差別の問題が改善するということは多分ありえない。

またこの手の問題になると少数民族の利権がらみとして見る人がいるが、個人的には、むしろこの近代社会でまだヘイトスピーチまがいの発言を繰り返す人の抱える利権こそ気になる。いかなる(おそらく反近代/反社会的な)誘導利益が彼にそう発言させるのだろう?
例えばアイヌ問題なら、アイヌの利権より、アイヌ先住民族と認めないことによる日本政府の利権を考えた方が早い。
実際、先住民問題を、まず利権の問題として見ているのは日本政府であり、この観点からアイヌの運動を見るから、彼らの主張が自らの利権を脅かすだけのものとしか見えない。