先日U23アジアカップで日本が優勝し、パリ五輪出場が決まっている。
いろいろ戦前の予想より苦戦した大会だと思うが、まあ良かった。(韓国戦を見終えた後は五輪出場をマジ危ぶんだぞ。。)
個人的には昭和からの古いサカオタだが、正直かつてほど「日本代表」に興味を持てなくなっている。地上波放送が減ったということもあるかもしれないが、、、というより単に時代についていけなくなってるという事と思う。
現代サッカー界は結構ちょこちょこアップデートしており、古い人間の古いサッカー観が通用しなくなっているのだ。
典型がVAR(ビデオアシスタントレフェリー)だ。
昭和サッカー脳のオレには、日本VSカタール戦での、あのカタールGKのレッドカードはいかなる意味でも受け入れがたい判定だ。
オレの古い常識では、このプレーでGKは仮にファウル/警告が出たとしても退場はありえない。
結果的に相手への不当なタックルとされたとしても、それが著しく危険で悪質だったとは見えないし、相手の決定機を妨害したわけでもない。
そもそもGKは日本選手(細谷)になんの影響も受けずに先にボールに触っており、細谷はボールにチャレンジすらしていない。
(ある意味では細谷がボール保持者であるGKのプレーに後から干渉しに行っているとさえ言える)
テレビ中継で解説の内田は「VARで見られると(退場を?)取られるだろう」という意味のことを言っていたが、実際そうなった。
VARは導入当初から、ゲームの流れを切るだの何だの言われていたが、まあ違和感はあるがそんなもの慣れの問題だし、実際もうみんなかなり慣れてると思う。
だが個人的にどうしても慣れないのは、プレーをスロー再生し、ときには静止状態で判定するというやり方だ。
吉本隆明は生前、ポストモダニストたちの分析理論を「ものさしの目が細かすぎる」と批判している。ものを測るにはその対象に適したスケールがある。その正確性は過剰だと言っているわけだ。そのことで却って現実の姿が見失われる。
単に見失われるだけならいい。実際ポストモダニスト達はその精緻すぎる分析で決定不能性にはまり込んだだけで終わっている。
だが個人的には、我々はその極小の世界に、ありもしない虚像を見出しかねないように思う。
我々の感覚器官の限界を超える精細さに幻覚を見るのだ。
。。。などと面倒臭い言い方をするまでもない。
要するにVARのスロー/静止画による判定の場で、我々は麻原彰晃が中空に浮く姿を「客観的事実」として見出しているのではないかと思えるのだ。
それはオカルトである。
オカルトはほとんど常に(新しい)テクノロジーとともに見いだされる。
※ここに当時実際に撮影された、麻原が座禅姿で宙に浮く静止画像を貼ることを自粛いたします。
撮影され再生される60フレームの中には、確かにカタールGKのカンフーキックに見える映像が映っていただろう。GKの足の裏が相手選手に向けられた?おそらく数フレームのことだ。
だた実時間にしてコンマ何秒にしかすぎない数フレームの画像の見え方が、一体何を明らかにするだろう?
むろん実際は審判たちはそのような事も折り込んで判断しているだろう。
だがその「事実」を見た上で、再び等速再生した映像を見直してみて、我々はそこに「幻」を見ずにいられるだろうか?
一方で、最近の選手たちはこのVARの判定に不服を見せることは殆どない。昭和(というか20世紀)の選手たちは審判の判定に普通に食って掛かっていたが。
それはFIFAのフェアプレーの方針が浸透してきているということだが、VARの技術的正確性が信頼されてという事ではおそらくない。
むしろもう「何を言っても無駄」と感じているのではないかと思う。
実際、オレももうVAR運用者に文句を言っても仕方ないと思っている。彼らは人間の感覚器官を超えた世界を見ることのできる、ある種の「信者」なのだ。
オレが言っていることは要するに不可知論である。一方で今、サッカーにおいては、VARが真実を提示するものとして存在している。
だがそれは端的に嘘であり、人間の審判による意図せざる不正確さよりも一層悪い。
まあサッカーとは今やそういうスポーツになったのだ、と割り切るだけである。今回は個人的にそう思い知らされた件だった。