映画「スケアクロウ」1973/虹の向こうのどこか

先日調布で映画「スケアクロウ」を見た。スキマ時間に見たものだが、面白かった。
つか過去、自分が10代とかの頃に観た記憶があるようなないような。。要するにすっかり内容を忘れており(というより内容を理解できなかったのだろうと思う)、事実上初見である。

 

1973年の米国映画で、同年のパルムドールでもある。
この作品は明らかに表面的なストーリーとは別のメッセージを含んでおり、そのメタファーや象徴を多様に解釈することが可能なものだ。実際ちょっとググれば様々に「読解」が試みられているのがわかる。

 

だがここではそういうのは無視し、当時の時代状況にも基づかずに、単に今可能な見方で観てみるw
というか、そういうものとして面白かったのだ。

 

主演はアル・パチーノ
今ふりかえってみると、この時期の彼は(映画史的に)重要な作品に立て続けに出ていることに驚く。

 

この作品は、偶然出会った二人の男が共にピッツバーグを目指すロードムービーだが、面白いのは彼らの性格と関係性だ。
短気で粗暴、「世間」すべてを敵視しているマックス(ジーン・ハックマン)と、周囲に迎合的で道化たライオン(アル・パチーノ)、互いにかなり性格が違うし、ウマが合うようでもない。

 

 

ただ両者ともに明らかに社会的に「弱い」存在であり、世の中に溶け込めずにいる(マックスは刑務所帰りである)。
一方で二人の「世間」に対する処世は対照的である。

大柄なマックスは行く先々で暴力沙汰を起こす。周囲にやたら敵対的で、あちこちでトラブルを起こしては結局ひどい目にあっている。
一方でライオンはユーモラスで、周囲との軋轢を自らの道化た振る舞いで笑いに変え、解消してしまう。
それはマックスとの関係においてもそうで、短気な彼を笑わせることでなだめ、周囲と衝突ばかりでは結局損だと諭す。
ライオンは「はみ出し者」が周囲に受け入れられる方法を知っているのだ。

 

だがそれはピエロを演じること、愚者として笑われることでである。
いわば被差別者として、差別されることを甘受することで、社会の日陰に小さな居場所を確保しているに過ぎない。
それは弱者の生存戦略といえるものだ。一見「賢い」とも見える。

だがそんな彼の迎合的な姿勢も、自分への剥き出しの害意に面したときにはどうすることもできずに踏みにじられる。
しょせん彼の立場も、周囲の強者たちの気分次第なのだ。

 

映画の転機は、道中のカフェで、例によってマックスがどうでもいいような些細なことで他人に食ってかかりトラブルになりそうな場面だ。
何度言っても周囲との無意味な争いをやめられないマックスに、ライオンはとうとうキレる。マックスを罵った上で彼と縁を切ると言い捨て、その場を去ろうとする。

ここでマックスが態度を変える。
店を出ようとするライオンを引き留めようと、道化た態度で相手や周囲を笑わせ、険悪な雰囲気を解消してしまう。自らピエロを演じてだ。

これはライオンがずっとやってきたことだ。このやり方で彼は周囲との軋轢を避け、融和的な関係を築いてきた。そうすることの意味をマックスも理解したのだ。
だがその姿を見るライオンはまったく喜んでいない。むしろ絶望的な表情を見せる。

 

 

端的に言えばこの映画は、周囲より弱く、圧迫/剥奪されがちな人々は、社会のなかでどのように生きればいいのかと問うものだ。
現実的に、弱い者たちが採れる道はおおきく2種類しかない。
戦って敗れ奪われるか、初めから差し出すかだ。

この作品の二人の主人公はこの2つの方法を体現するものだが、いずれも行き詰まる。
強者と弱者の差別的構図と力関係が変わらない以上、弱い者たちが何をどうしようが結果は同じである。

 

ライオンは、マックスの道化姿を客観的に見ることで、自分がやってきた事の意味を知る。
それは差別され剥奪されることを自ら受け入れる姿だった。被差別者として生きることを甘受する態度だ。
だが本当は、戦うべきだったのではないか? マックスこそ正しかったのではないか?
しかし戦いつづけてきたマックスが実際には何も手にせず、奪われてきただけなのもまた現実なのだ。

 

 

ここで二人は行き場を失う。出口の無い袋小路に突き当たっている。
このロードムービーは、実際にはどこにも行き着かない。
ピッツバーグにあるはずのマックスの銀行預金も、デトロイトにいるはずのライオンの子供も、彼らにとって結局幻だった。
現にそこに存在しているものが、彼らには手が届かない。

 


この作品は、少なくとも表面的なストーリーは大して面白いものではない。二人の「バディもの」とよく言われるが、さほど魅力的な関係でもない。精神的にはともかく現実的に、彼らは互いに何のチカラにもなれない。共に弱すぎるのだ。

またこの作品は、登場人物の配置や名前から「オズの魔法使い」を下敷きにしているとされる。
だがそんな深読みなどせず単に素直に観てみれば、あからさまに暴力的な差別や偏見にさらされる弱者、少数者の救われなさを見ることになる。
そしてそんな状況にかすかな光さえ見出すことがない。

 

 

この種の作品を見て、いったい何を感じればいいのかは結構難しい。
そこにあるのは抵抗も無抵抗も単に無力であるような虚無的な状況である。
そこに分かりやすく敵が名指され告発されているわけでもない。この不快な気分のぶつけどころがない。

救いは、これが半世紀も前のフィクションだということくらいだ。これは嘘だったのだとでも思えば多少は気が楽である。

だが映画館の外でも、まさに今、個人間から国家間まで、様々なレベルで似たような虚無を見るだろう。ひょっとしたら自分自身、多数者としての立場でだ。