映画「われに撃つ用意あり」1990年 /忘れる前に忘れていた事

もう数ヶ月前になるが、若松孝二の「われに撃つ用意あり」(1990年)を見た。
バブルの頃の新宿が舞台で、個人的にも懐かしい風景が映っている。単に懐かしいというより、自分の若い頃、上京した当時のいろいろ楽しかった記憶と結びついているのだ(若い頃というのはなんであれ楽しいものだ)。

 

ただ、この監督が1990年の新宿の風景をある屈託を持って撮っていることが映画を観ていてわかる。実際、この作品には新宿の街並みの映像が単なる舞台の説明以上の頻度で現れる。

バブルの新宿

ストーリーは全体としてとても図式的でわかりやすく、こうなるだろうなというようになる、アクション映画なのにあまり緊張感のない凡作と言っていい。
ただこの新宿への固有のこだわりが、作品を妙な印象にしている。


主人公は新宿で20年、自前の小さなバーをやってきた男で、そのバーを閉める日が迫っている。
彼は若い頃、学生運動に関わっており、店に集まる仲間もみな元学生運動家である。
彼らはそれぞれに学生運動的マインドを残し、現代日本への不満と、若い日の武勇伝を語るが、実はそれぞれにバブルの日本に適応してもいる。

 

主人公は学生時代に機動隊と勇敢に戦った「闘士」として仲間からも一目置かれる存在である。だが彼はまだバブル日本に適応できてない。自分が戦った意味を/そしてやめてしまった意味を問い続けている。

 

彼らの「闘争」のエポックは1968年の「新宿騒乱」で、この店の20年はつまりそれ以来ということだ。
だが閉店を機に主人公も過去を忘れようとしている。この店を閉じるとはそういうことで、要するにもう潮時なのだ。

1968年 新宿騒乱

最終日の開店準備中、ベトナム人少女がヤクザを逃れて彼の店に逃げ込んでくる。
当時の日本の歓楽街には、 接客・性風俗業界に 東南アジアからの出稼ぎ女性が(合法・不法に)流れ込んでいる。彼女もそんな一人なのだが、ヤクザの大物を殺してしまい、追われている。
主人公は彼女をベトナムに帰すため、警察とヤクザの目を盗み、パスポートを偽造し空港に送り届けようとする。

 

本作の基本のストーリーはそのようなものだ。

 

1968年の「新宿騒乱」はベトナム反戦闘争だった。
主人公は、この閉店と共に忘れ去ろうとしていた「ベトナム」に、もう一度付き合ってみる気になる。
今日で忘れようというその日に、もう一度だけ思い出してみようとする訳だ。
だがその結果は無残なものだ

 

物語上は、彼は首尾良く警察とヤクザを出し抜いて少女を空港に送り出す。
だが実は彼はベトナム少女のことなど気にかけていない。実際その後少女がどうなったのかはまったく描かれない。
彼が格闘した相手はヤクザや警察ではなく、自分の過去/闘争、その意味である。


主人公は原田芳雄、相手役が桃井かおり、他に蟹江敬三石橋蓮司小倉一郎西岡徳馬と芸達者ぞろいである。
個人的にも親しい仲なのだろう彼らの息の合った「芝居」を見ているだけで十分なエンタメである。

 

そして彼らの練達した演技が、まるでこの劇映画は本当に芝居でしかないのだと感じさせる。
新宿騒乱は現実に起こった事件である。だが現実との関わりにおいて主人公がその意味を反芻し続けたこの闘争の意味が、バブルの新宿の風景の前にリアリティを失っているのだ。

 

細かく見ていけばストーリーはつじつまが合っておらず、人物設定もいい加減である。
彼が68年に置いてきたものは何だったのか、作品の主題ともいえるその問いさえ形だけ適当に処理されている。
これは監督が悪いとか役者が悪いという話ではない。

 

というより、この作品はそうならざるを得ないものと意識して作られている。
もう演じる価値のない役を演じ、問う意味のない問いをカタチだけ問うている。日本の空前の好景気が、彼らが闘争の意味を問うこと自体を骨抜きにしてしまっている。

 

それは単に豊かになったからとは言えない。
彼ら自身その恩恵に浴している豊かさは、実際にはベトナム人不法就労者らの性的・経済的搾取の上に成り立っていることが映像に現れている。90年の新宿の街の風景にだ。
それはかつて彼らが打倒しようと闘ったものだったはずだ。だから今回も首を突っ込んでいる。

 

だが実は彼の、勇敢な「闘士」だった過去はデマカセだった。騒乱の当日、機動隊との衝突の最中、彼は逃げ回っていたのだ。
彼が他の誰より闘争を忘れられずにいたのは、皮肉なことだが、この自らの嘘によってである。

 

そして今、この嘘に決着をつけようとした彼が突き当たるのは、空虚と嘘と欺瞞のバブルの新宿である。
何もかもまがい物であるかのような現実に突き当たり、映画終盤の原田と桃井の二人芝居は見事なものである。
まるで内容がない人物とその行動に、何か意味があるかのように見せかけてまったく飽きさせない。
こんな芝居は、誰かがそうと意図しなければできるものではない。

 

 

ラストシーン、新宿コマ劇場前の広場で、原田と桃井はもはや一体何をしたいのか意味がわからない。
実際、彼ら自身その意味のわからなさに苦笑していると言っていい。

 

 

嘘の向こうに見失われた過去の記憶とバブルの能天気な喧騒が、何か似たようなものとして重ね合わされている。
68年の新宿騒乱の映像と、90年のバブルの新宿の映像が、意図的に対比されている。
ただ、それがどのような批評を意図したものか分からないが、主人公の苦闘?を、安易なパロディへと逃がさなかったという点で、個人的には観て良かった作品である。

 

というより、この一見凡庸以下の作品が、数ヶ月たっても忘れがたいのだ。
どれほど卑小な嘘として記憶しようが、新宿騒乱は実際に起こった事件だし、その意味で主人公の経験はフィクションを超え現実との接点を持ち得るものだ。
だがこの映画において、彼が彼の小さな嘘にこだわることで却って、より全面的で根本的な嘘に突き当たっている。

 

現代日本」というとき、多くの人にとって「バブル以降」を指すと感じられているだろうが、それはいわゆる「失われた30年」のことだ。
その「失われた」なる言い分を信じるなら、このバブルの絶頂期に原田芳雄が見失い取り返そうとしていたものは、たぶん今もまだ取り返せていないままでいる。

 

そう思う時、一体バブルとはなんだったのか、と思う。
自分自身、バブルの最後の一端をちょっと知っているだけにすぎないが、この不可解さは経験していない人/世代にはわからないことかもしれない。