映画「バニシング・ポイント」1972年 / 罪が消えてなくなる場所

ちょっと前、池袋で「バニシング・ポイント」を見た。
文芸座だったが、客席は9割方埋まっており、ちょっとびっくりした。これがそんなに動員力のある作品と思っていなかった。
この作品は一連の「アメリカンニューシネマ」のひとつだが、有名な俳優が出ていないこともあり、さほど人気はないと思い込んでいたのだ。
さほど評価の高い作品でもないと思っていたため、まあ機会があったら観ておきたい、程度に思っていたのだが。。

実際に見てみると、これが面白かった。
御多分に漏れず若い頃にニューシネマにハマったクチではあるが、もう若い頃のように観ることにはならない。
以下はリアルタイム世代でもないオヤジが、2023年の日本でこの映画を観て思ったことだ。
一般にアメリカンニューシネマが語られるのとは違う語彙になるだろう。

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ストーリーはシンプルなもので、主人公の男性がデンバーからサンフランシスコまで車を運転して届ける、というものだ。
車は「ダッジ・チャレンジャー」というスポーツカーで、主人公は元プロのカーレーサー。
彼がこのスポーツカーを平均時速200キロの猛スピードで走らせ、追って来る警察を振り切ろうと国を横断しつつ延々カーチェイスを繰りひろげる。
そんな彼の逃走劇を黒人のラジオDJがリアルタイムに中継放送し(警察無線を傍受している)、彼は全米の注目の的になっていく。

主人公が(そんな必要もないのに)常軌を逸した速度で走る理由は最後まで謎のままだ。
彼は寡黙な男で、この逃走劇の理由も意味も最後まで語られない。

彼はベトナムに従軍し負傷している。帰還後はレーサーとして挫折し仕事もうまくいっていない。
だからといって彼のこの逃走劇は、体制への反抗や社会への不満、自由への逃走といったものではない。
この作品が「ニューシネマ」ということで、そのように説明されることが多いが、いま見てみれば、全くそんなことはないとわかる。

彼はピーター・フォンダロバート・デ・ニーロのように不満でも怒ってもいない。むしろ穏やかで、ハンドルを握りながら微笑んでさえいる。
これは映画を観ていて最後までひっかかるところだ。ニューシネマの主人公達と何かが違う。

彼とのカーチェイスで警察の車が横転したりクラッシュしたりする場面が何度も現れるが、その都度彼はクルマを降りて相手の様子を伺い、無事を確認して再び走り出す。
彼の疾走は全く破壊的、暴力的なものではない。追っ手を逃がれようとはしているが、敵意はない。

砂漠の一本道を誰も傷付けないよう気遣いながら疾走するうちに、彼が走る意味がおぼろげに見えてくる。彼の背後にある風景が見えてくるのだ。

 

彼は海兵隊時代、実際にベトナムに従軍し、怪我を負っている。
警官時代には、連行した少女をレイプしようとする同僚の白人警官を殴りつけ止めている。
彼を激励する盲目の黒人DJは保守的な白人男性に踏みつけられている。

 

彼の周囲には、公然と弱者を暴力で圧迫する者たちがおり、黒人や障害者、女性、ベトナム人を殴り、レイプし、殺している。
それはアメリカ社会の主流派といえる人々、つまり白人男性で、彼自身がそれである。
彼自身かつて国家権力と一体化した存在として振る舞うことができ、実際に体制的暴力として振る舞ってたのだ。
(実際には彼はそこでも弱い者、傷ついた者を救おうとしていたのだが)

彼はアメリカの白人男性として、そこに結びついた罪を背負っている。
彼が猛スピートでアメリカを横断するのは、そのような自分から逃れるため、あるいは贖罪のためだ。
彼はここでコワルスキーという名の個人では無く、白人男性であることの「原罪」を背負う存在といっていい。

 

この映画が語るのは、アメリカ=白人男性の罪の意識で、主人公が抱える鬱屈はいわばマジョリティであることの負い目だ。
自分はただ存在しているだけで弱者から奪っている、そのことから逃げだそうとしているように見える。

彼自身ベトナム帰還兵だが、彼のつまづきがベトナム戦争か始まった事は疑いがない。
この時代、 (不道徳な) ベトナム戦争の敗北がアメリカにもたらした「傷」は様々に表現されているが、それはアメリカの白人男性が抱え込んだ困難とイコールだと言っていい。
(ニューシネマで苦悩するのはみんな白人男性だ)

だがこの作品の際立ったところは、単に主人公の苦悩だの痛みだのをナルシスティックに描くのではなく、むしろアメリカに多様な「非白人男性」を見出していくことだ。

ロードムービー的な側面を持つこの作品で、彼は逃走の途中に様々な人々と出会う。
彼のチャレンジャーが舗装道路を外れ、砂漠の荒野へ乗り出す先に見出すのは、アメリカ社会が周辺化してきた人々、社会の中心を逃れてきた人々だ。
黒人、若者、女性、障害者、先住民、老人、貧困者、同性愛者が、主人公の逃走に関わってくる。
(砂漠のヒッピーに助けられたりする)
黒人DJが実況する彼の逃走劇に注目しているのも、社会の周辺にいる者達の視線だ。

 

ただ観ていてどうしても気になるのは、そのような本作品においてもなおほの見える差別的な偏見で、同性愛者に対する蔑視は今となってはかなり厳しい。
また女性表象も伝統的なステレオタイプを出るものではない。

おそらく他の属性の人々も、描かれていたならば似たようなステレオタイプ表現になったろう。

また彼のザックリな「原罪」意識は、たとえば「逆差別」に苦しむ「白人弱者男性」を無視するものだ。おそらくこの時点での彼自身がそうであったにも関わらず。

それは時代的な限界といっていいが、それでもこれは主人公が自分を観る彼らの視線に気づく、彼らの存在に気づく映画だと言っていい。
自分が彼らに見られている。彼が警察/アメリカ社会に対峙する中で、多様な少数者の存在を社会の外=砂漠に見出す。

21世紀の(BLMやフェミニズムが騒がしいw)今から見れば、この作品は今日的な意味での「多様な人々」がその存在を現わし始める前夜のものとわかる。
彼らはまだ黙っている。だが主人公にはその姿が見え始めている。


作品の冒頭、警察の待ち伏せを迂回した主人公のクルマが猛スピードで「消失点」を突き破り、突如として姿を消すシークェンスがある。
これは映画のラストシーンのフラッシュフォワードで、実際この映画の最後に同一のシークェンスが訪れる。
だが実際のラストシーンではこの冒頭で予告されたものとは違う結末を迎える。

まるで「来なかった未来」であるかのようなシーンだが、 主人公はこの映画を通してそこに向かって走っていると言っていい。
そこは彼の「罪」が消える場所Vanishing Pointだったかもしれない。
だが上述の通り、映画はこれとは異なるラストを迎えており、主人公は結局そこにはたどりつけなかったことになる。

そこはどのような場所だったろう? それはよくわからない。
21世紀の今になってみれば、もうそもそも彼=白人男性が特権的にアメリカ(の罪)を背負って進むことができなくなっていたとは言えるかもしれない。