「怒りの日」/フェミニズムと世界の終わり

年末年始にかけて時間があったので、イメージフォーラムカール・ドライヤーの作品をいくつか見た。
何が驚いたって、このコロナの令和にドライヤーの作品で結構な人が入っているということ。
こういうところは流石に東京だよねと、もう上京して何十年も経つのに思う。

 

「怒りの日」(1943/デンマーク

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この作品は、中世の北欧でのいわゆる魔女狩りの話だ。
相変わらず画面にチカラがあり、緊張感が半端ない。。。。のだが、以下は別に映画自体の感想や批評という訳ではない。
むしろフェミニズム的な読解である。この魔女狩り、どう見たってフェミサイドだからだ。

 

魔女狩り

魔女狩りといえば、中世の無知蒙昧な民衆やファナティックなキリスト教会が、集団ヒステリー的に虐殺を行った、みたいに思われてる。

 

ただ少なくともこの作品を見る限りでは、あきらかに「異端審問」なる制度の問題が大きい。
魔女を見出し排除しようとする教会のシステムが、人々のいさかいを自動的に魔女裁判へとフレームアップしてしまう構造が見て取れる。
そのうえ異端審問が、どうやったって被告を魔女だと証明するように構成されている。神学がどういう理路を通っても神の実在を証明してしまうように。
こりゃ罠である。

 

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この1943年のデンマーク映画は、別に中世的な価値観を描いている訳ではない。
ドライヤーの他の作品同様、ただ人間(関係)のみを描いている。いわば脱宗教化されている。

 

そして宗教色を除いて描かれる中世は、牧師系列の権威的存在はすべて男で、一方女は全てそうではない、という事実が嫌でも目につく。
「魔女」の多くが女だったわけだが、実際のところ魔女なる生贄は制度化されており、それが教会の権威化に一役買っている。

 

罪とその否認

年老いた牧師アブロサンは、その若い妻アンネ(再婚らしい)との間に感情的な交流が無い。
というより権威主義的な彼には全く人間的な感情が無い。

 

だがどうやら、過去の彼の男としての?欲望が、この若い後妻との再婚に関係しているらしいことがほのめかされる。
彼のアンネに対する頑なな無関心は、彼のこの不名誉だろう過去の否認という意味があるようだ。
一方若いアンネは、この年老いた夫の冷酷に傷つき孤立している。

 


映画は、このアブロサンの息子マーチンが遠い土地から帰ってくるところから始まる。
マーチンもまた神学校を出たばかりの宗教者だが、若い彼は父のような権威的な態度は無く、とても人間的・魅力的に振る舞う。
「魔女」の処刑に居合わせ、その不合理に苦悩する姿を見せたり、あろうことか父の後妻アンネと不倫関係になったりする(笑)

 

この若い2人の愛情関係は、アンネを悩ませはしないが、マーチンを苦悩させる。
アンネはグイグイ来るが(笑)、そのうちマーチンが逃げ腰になる。

 

アンネは自分の父の妻であるが、2人の夫婦関係に内実は皆無である。だからマーチンの苦悩の原因は父への罪悪感というより、それが不倫という道徳的な罪だということだ。

 

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うろ覚えなので不正確な引用になるが、二人の関係の終わりを示す場面、

 

アンネ「私を避けてるの?」
マーチン「いや、自分を避けてるんだ」

 

彼は自分の愛と道徳との間で板挟みになり、結局は「自分」を捨てる。
それはアンネを捨てることで、それにより「罪」を逃れようとする。

 

そしておそらく老父アブロサンも過去に同じ苦悩と決断を経験している。
アンネ/自分の欲望を捨て去ることで、道徳を、牧師なる権威を身に纏っている。
アブロサンのアンネへの冷淡は、単に年齢の差や女性蔑視から来るものではない。


魔女というファンタジー

二人の男たちにとって、アンネは自らの「罪の証拠」だといっていい。
二人はアンネを拒み、そうすることで罪を逃れようとする。
そして男達の裏切りにアンネが不満を言い立てる時、アンネは男達にとって魔女になる。

 

自分に都合の悪くなった女がまるで魔女のように見える、という男にありがちな身勝手なファンタジー(笑)が、ここではお伽話ではすまない。

 

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後にアンネは「魔女」と告発される。(告発するのは別の「魔女」だ)
そしてほかならぬマーチン自身もまたアンネに「魔女」を見出すのだ。
なぜなら、

 

 自分の罪=アンネへの不倫の愛は、アンネの魔術のせいだった

 

からだ。
この、他の場所ではとても通用しないような屁理屈が、魔女裁判に居並ぶ審問官の男達には堂々と通用する。

 

おそらく彼らもまた「女」を相手に同じような「欲望」と「罪」を経験しているからだ。
彼らは自らの罪を否認し続けるために魔女を断罪し続け、その度ごとに道徳と権威の仮面を新たに被りなおす。

 

マーチンの証言によりアンネは「魔女」とされる。
マーチンの「罪」は贖われ、道徳と権威の仮面を被るだろう。


歴史の終わり/歴史の始まり

多くの古い宗教において女は低劣な(場合によっては卑しい)地位しか与えられていない。
魔女裁判もこの宗教的な性差別が原因と見えるし、今も例えばイスラム教にそれを見るだろう。

 

だが、ドライヤーによるこの作品において、性差別は宗教とは無関係なのではないかと考えるのに十分である。
男性集団による、共謀的な女性の排除が権威/権力の起源において起こっている。

 

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フランシス・フクヤマは、民主主義体制の全体主義への勝利を以て、権力/イデオロギーの抗争としての「歴史」は終わったといってる。(撤回したようだが)

 

だが現実にはその同じ時期、人種差別や性差別の反対闘争が、そこにある民主主義体制に対し戦いを開始している。
その「歴史」は今も続いている。

 

国家的な統治形態と差別ではレイヤーが違う、とは言えない。
人種差別や性差別は、起源が古すぎてそう見えないだけで、あるイデオロギー化した統治権力の形式だからだ。
そもそも黒人も女性も選挙制度から排除されていた。

 

性差別は(フェミニストが家父長制などという語を用いて力説するように)権力/制度的な産物だといっていい。それは文化的因習などに解消できない、それに先行し、また今も生起している権力関係だ。

 

多くの旧植民地は、武力闘争によってしか独立を勝ち得ていない。
同様に人種差別、性差別も、そこからの解放を何らかの意味での暴力に依るしかないかもしれない。
今や近代社会に住む白人/男性たちは、自らの民度と寛容を信じているし、そこにある差別の存在を認め平和的な解消への努力を約束するかもしれない。
だが実際に解消への努力を始める前に、被差別者たちの攻撃的な態度を道徳的に非難するだろう。
そして道徳は被差別者にとって常に差別者が語る罠だった。

 

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