仮構された「個人」により消される問題

そんなに追っかけてなかったけど、このリンクで大体はてな界隈は網羅されるのかな?
立ち居地/考え方のパターンはほぼ出ていると思う。
表現規制問題。色々な意見。:俺の邪悪なメモ
こういうのがあるとそれだけで有用だが、エントリ主の態度も冷静でよい。つか冷静でないとこんなことはできないか。
特に反規制派に感じるのだけど、自分達をマイノリティとして(それは多分そうだろう)、「社会」とか「世の中」の外部にあり、それらと対立的なグループだと捉えようとするのはどうかと思う。
議論をしていく上で、そのような理念的な線引きは必要だろうが、議論の展開/進展につれて、この便宜的な線引き・区別が何がしかの実体を反映したものであるかのような語られはじめている。*1
だがどういってみても(たとえマイノリティであっても)この社会内に属しているのであって、そうである以上、たとえ抑圧されていようがこの社会の社会的責任は果たさなければならない。
過度に「世の中」を自分の外にあって自分を抑圧するものであるかのように語ることは、結局、(例えば性・差別表現の流通に関して)誰もが果たすべき「責任」から、「特権的な被害者」として免責されることを意図しているように見える。
この「責任」を回避したところで「表現の自由」が語られているように見える。
だが少なくとも、たとえ主観的には自分達の表現の自由が抑圧されると感じているとしても、この問題に関して被害者として語れるのは、現実の性差別/暴力被害者だけだ。これは性差別/暴力(の表象)を社会的にどう取り扱うかの問題だからだ。あるいは、この社会は現実の被害者をどう取り扱うか、という問題だ。
彼(女)らに対したとき、反規制派も「社会」の一員として、潜在的には加害側であるという自覚を抜きにしてこの問題を語れない。それはつまり純粋に表現の自由の問題として語れない部分があるということだ。
そして対立の焦点は要はその部分だ。
この問題の問題性は、現実にある社会関係(言っていいなら差別構造とそれが起こす現実の被害)を背景にしていることにこそある。単に理念の問題ではない。
以下も多分そんなことを言っている。難しいけど。
「表現の自由」ではなく「陵辱ゲームの表現の自由」が問題になっているということ:過ぎ去ろうとしない過去

「社会」と「自分達」を便宜的に区別すれば、論点が明確になり議論も進展するだろうが、他方この便宜的な区別が隠蔽するものを見逃すなら、この「社会と自分達を区別すること」自体がある者に対し抑圧的に働くだろう。
例えば規制を推し進めるにしても、あるいは撤廃するにしても、それはあくまで「社会」がそうするのだから、その外部に立てる者などない。だがそれを「社会」の外部から主張しうるとするなら、それはいかなる意味でも抑圧的である。たとえマイノリティ/弱者によるものであったとしても。
(我々はしばしば、社会的弱者/被差別者を特権視してしまう。例えば先住民族や性暴力被害者を。だが彼らを特権視することは、被差別者としての特権を許し、同時に彼らをその地位に固定しようとする政治的な権力の根拠になる)
実際、陵辱エロゲ趣味?は確かにマイナーで反社会的な嗜好だと思うが、程度の差こそあれ、その種の嗜好なら多かれ少なかれ誰でも持っている。反規制派が揶揄するような清潔な人物など実はいない。だれも同じ様なものだ。
ただ個人の趣味がなんであろうと、「社会」の外部からそれを特権的に主張できるのだ、と考える人となると、そうはいないだろう。それが可能になるには、何らかの政治的な権力作用が背後にあるし、つまりそうすることは(政治的な)権力の示唆である。
個人的には、基本的人権は国家に先立っていると思っているが、果たしてそれは市民社会/共同体にも完全に先立つものか? というのは微妙な問題な気がする。
というか、(繰り返しになるが)問題だと感じるのは、何らかの主張をする「個人」が「社会」と対立する場で現れており、その「個人」が自由だの権利だのの主張の場/根拠になっていることだ。
個人は社会内にあって当然存在しうるが、ここでの「個人」は、その現れのプロセスにおいて社会的責任がロンダリングされている。*2

*1:いわゆる反規制派がみんなこうだというわけでは当然ないけどね。

*2:これを近代市民社会における個人と呼んでいいかも微妙だと思う。