表現の"新自由"と法規制について

保障されるべきものとしての「表現の自由」とか言う時、それはある種の人々にとっては、法の文言と不可分に/一対一で対応しているのだろうか、と思う時がある。
エロゲ関連で、この界隈が騒がしいのをズラズラ読んでいて思ったのだが、立場を異にする人たちの間で自由や基本的人権についての把握の仕方が異なっているのではないかなと感じる。
今回の構図に単純に当てはめれば、自分の立場は"規制派"になるのだと思う。
だが例えば自分的には「基本的人権」という概念は、そもそも国家に先立っており、それに優先するものだと考えている。
「自由」に関しても(これは個人的には経済用語/経済と切り離して扱えない語だと思っているが)、国家に先立っているか、少なくとも独立していると思っている。
したがってそんな自分が、何であれ"法規制"に賛成するはずが無いわけだ。だが今回はそういう立ち位置になっている。で、そんな人が他にもいそうな気がするので、ちょっとだけ書く。
実は例のエロゲに関して法規制には反対か保留、だが何らかの規制は必要、と考える"規制派"は意外に良く見かけ、その煮え切らない態度に「要するに何よ!」と自分を棚に上げ言ってしまいたくなることも多い。
では自分はどう思っているのだろうか?
反規制派の主張(のロジック)に関する違和感というのが確かにある。
端的に言うと、自由なり人権なりが、国家/法によって(上のような文言によって)保証/正当化されていると考えているのではないか? と感じられることだ。
つか以下の難しい議論のエントリの、最後の方でこの点がチラと指摘されている。*1

『人権侵害』という言葉に引っ張られて,「法の言葉」でこの問題が語られることに執着しているのではないかと思います.

tikani_nemuru_M氏の問題意識に対する呼称についての,私の見解 - いまだに落ち着きのない三十路(アラフォー)

違和感を持つのは、彼らがそうと明示せずとも前提しているらしい「法的に無問題なら完全に正当ということで、誰に文句言われる筋合いはない」とでもいうような「自由」や「法」に関する認識だ。法への(過度の)信頼と言ってもいい。
個人的には、自由は国家/法に先立っており、法がどうあれそれに保障されるものでも正当化されるものでもないと考えているので、そのような考え方こそ"法による自由の規制"と見える。
この種の「自由」観は新自由主義における自由観と似ていて、新たに"新自由"とでも名づけたらいい概念と思う。つか以下"新自由"。
個人的には表現の自由も人権も、基本的には市民社会レベルで(その内部で)整理すべき問題で、法解釈を過度に参照/依存すべきではないと考える。それらが法に由来する概念ではないからだ。
だが具体的に今回のような件に関して、可能なら法によらずして(無論法/立法とて市民の権利だが)何らかの抑止力が必要だろうとは、社会道徳的な観点から思う。
だが"表現の新自由"の主張のように、それが法的に無問題なら、むしろ何らかの規制こそ不当/違法である、というような態度をもし取られるなら、自分のような「法規制はダメだろうが何らかの規制が」と考えるタイプは取り付く島が無い。
だが純粋に法のレベルで考えることを、単に議論のレベルが違うとだけ言ってすまされない。
表現の自由が法的/政治的な意味を持つのは、国が"法規制"を言ってきた時で、その意味で今回"反規制派"が声を上げるのは正当だろう。"規制派"だって(ヨワヨワに)反対している。
だが国が直接関与しない場での、"表現の新自由"の問題 =自由や人権が法解釈の問題であるかのような措定自体が、結局のところ法の強制力の(市民社会への)導入でしかない。
例えば人権侵害について、自分はそもそも人権自体が法によるものでなく、そうである以上、人権侵害も法解釈を超えて存在する、という立場になる。つまりそれが厳密に法的な意味で人権侵害であるかが本質的に問題であるという態度にも、違和感を持つ。この問題を法/国家レベルに矮小化するものだ、と感じるわけだ。すでにその行為自体が法による基本的人権の規制/制限である。
少なくとも個人的には、"反規制派"の論理を、本質的には倫理/道徳的というより政治的な問題として危険だと感じる*2。法規制の端緒としてだ。国家/法を甘く見ているのではないか?

*1:この問題に関して、法の問題として扱うことについての、このブログ主のような留保の明示は不可欠と思う

*2:規制派全てがそうだというわけでは無論ない。ただ"反規制派"の論が持っているような弱さを、"規制派"の論も全て潜在的に持ってしまっているかもしれない。