黒い画集2009

先日NHK BSで映画「黒い画集 あるサラリーマンの証言」をやってた。
松本清張原作のサスペンスの佳作で、映画としても非常に出来がいい(もっとも本作は清張の原作とは結末が異なっているようだが)。
過去に何度か見ているが、懐かしさもありつい見てしまった。
以下ネタバレあり。

黒い画集 あるサラリーマンの証言 [DVD]

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良く知られた作品だが、サスペンスの骨格は
法廷に証人として出廷した主人公は、自身の不倫を隠すため「映画館にいた」と偽証するが、自分に殺人容疑が掛かった際にまたも「映画館にいた」として心証を悪くし、潔白の証明のため最初の偽証を告白せざるを得ない、というようなもの。
一言で言うと「因果応報」を絵に描いたようなストーリーで、身勝手な男に起こる皮肉な展開がタイトルどおりの「黒い」ユーモアとして効いてる。映画としても面白い。
のだが、正直今やこの素朴なユーモアを素直に笑えない。
警察/検察による犯罪捜査にもはや信頼を置けなくなっているからだ。
この映画での最初の事件は、主人公の知人が殺人犯として起訴されることだ。
実はこの知人は無実で、実際主人公はこの知人の無罪を知っている。
ただ主人公は自身の不都合(部下との不倫)を隠すために知人のアリバイを証言しない。(映画館にいたため彼を見ていないと嘘をつく)。
知人を裏切るわけだが、現に真犯人でないのだから、警察/検察が彼を有罪に持っていけるはずは無いと自分に言い訳をする。
次の事件は、この不倫をネタに主人公を強請ろうとしている男が殺され、殺人容疑が主人公にかけられること。
この事件の際は、主人公は本当に映画館にいて無実なわけだが、警察は不審に思う。
で、警察は主人公にまくし立てる。
2つの殺人事件でカギを握る主人公が、いずれも映画館にいて非関与を主張する、この不自然さは何だ? そして映画館に一人でいたということを証明する者はいない。
そして警察はストーリーを語りはじめる。主人公が殺しに至った経緯をその動機から語りおろすわけだ。
状況と心証を基にした安易な推測で、主人公が殺したと断定し、密室の取調室でそれを認めるよう主人公に迫り、自白へと誘導しようとする。
それとしてはスリリングなサスペンスだが、2009年の日本にいる者は、これは典型的な冤罪発生の構図だとまず思うだろう。
そして劇中最初の事件で、無実の知人が殺人罪で起訴/有罪判決にまで持っていかれた背景にも、このような思い込みに基づく強圧的で誘導的な取調べと、調書を鵜呑みにする検察があったろうな、と思うわけだ。仮に主人公が知人のアリバイを証言しても、これを覆せたかどうか疑問と感じる。
この作品で、警察は短い期間に2つの冤罪を起こしかねない事態になっている。主人公の不誠実な態度はそうだが、それ以上に、取調べの際に最初から犯人と決めて掛かるような恣意的なストーリーが取調官の口から自然に出てくる。それを制止するような仕組みが無い。
この作品はフィクションであり、本物の警察/検察がそうであるわけではない。
だからこそ、2009年にこの作品は(フィクションとして)「黒い」ユーモアになってしまっている。
それは作者/監督が意図したことではないが、だからこそこのフィクションは、今の現実こそが笑えないユーモアなのだ、あるいはブラックユーモアとして描くしかない笑えない現実があるのだ、と語ってしまっている。
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