ちょっと前の事になるが、妹ちゃんの高校の卒業式があり、嫁と一緒に行ってきた。
この時までには妹ちゃんの受験はすべて結果も出ており、結局志望校には受からず、滑り止めに行くことになっている。
そのせいか本人はやさぐれておりw、そんなに上機嫌という訳でもなさそうだった。
校門付近で写真を撮ったが、なんというかブサイクな顔をしているw
入学手続きをすべて終え、大学側が言ってきたパソコン等も買い揃えた今になってもまるで乗り気じゃなく、大学生活に思いを馳せるなんて状態からは程遠い。そもそも彼女の口から大学のことなどほぼ出てこない。
まあ滑り止めに行く学生の春休みはみんなこんなものだろう。父も憶えがあるよw
卒業式は午後早くに終わったので、嫁と二人で昼食をとった。
(妹ちゃんは友達と遊びに行った)
たまたま学校の近くに嫁がテレビか何かで見た高級な?ステーキ店があり、ちょっと値段は張ったが入ってみた。
小洒落た店内に座りながら、嫁がまるでこのような場面で言うような台詞を言った
「とりあえずこれで一段落だね」
末子が高校を卒業した。
兄がすでに大学生だが、確かに大学生になればもう子供ではない。
親ももう「保護者」という感覚ではなくなる。
妹ちゃんもこれでそうなる。
卒業式を終えてみて、我々の心構え的に、彼女も(ウチラの庇護下の)「子供」ではなくなったような気がする。
一体どうやって食ったらいいのかわからないような肉料理を食いながら(店員に食べ方を聞いたw)、ちょっと奇妙な感覚になった。
特段何か喋ることもなく座っている嫁が、これまでと違って見える気がする。
別に式典用にオシャレしてるからではなく、なんというか、彼女をどう見ていいかわからないような気分になった。
この20年ほどで、オレにとっての彼女はもっぱら「ウチの子の母親」のようになっていて、いわば子供を介した関係だったのだが*1、その関係から結接点である「子供」がいなくなった。
彼女との関係が一瞬、何もなくなったように感じたのかも知れない。
ウチラ夫婦は子供を大学まで出す(むろん本人が望むなら、だが)というのを一つの目標にしてきた。
家計もそれを中心に考えており、すでに2人の子供が大学院に行くことになっても受け入れる準備ができている。
妹ちゃんの高校卒業/大学入学は、そういった意味では「親」としての最後のハードルを越えたということなのかもしれない。
小津安二郎は、その映画の中で繰り返し「娘の結婚」を描いている。
そこでは親が(特に男親が)、子の結婚により「親」でなくなる瞬間が描かれている。
親子の関係が、つまり核家族が解体する様子を描いているといってもいい。
この小津の父娘ものには、しばしば不可解なシークェンスが現れることで知られている。
典型的なのが「秋刀魚の味」の軍艦マーチを歌う場面だ。
酒場で父(笠智衆)が旧軍で戦友だった男と一緒に軍歌を歌う。このシーンが不自然に長く、意味ありげに挿入される。
だが実際には前後のストーリー展開とは特段関係がなく、何故そんな場面があるのか最後までわからない。
どうやら父にとって、旧軍での経験、戦時中や戦前の日本が何らかの意味を(シンパシーやノスタルジーを)持つものであるらしいとわかるだけだ。
ただそれは父が「父」であるためになんらかの意味を持ったものらしいとは言える。
たとえば「東京物語」では、娘(原節子)は、父の戦死した息子の未亡人である。父と娘の関係が終わるのは戦争が終わったからだ。
小津がそこに何を込めたのか、芸術的な意味は知らないし、ここでは関係ない。
ただベタな連想として、ウチラ夫婦の20年の子育てはまるで戦争のようだったと感じただけである。子育てを経験した夫婦にはありふれた感慨だろう。
我々は、もはや歌っても仕方ない軍艦マーチを歌うように値段の高い肉料理を食ったが、特別話すようなことも無く、ほとんどしゃべらずに食べ終えた。
考えてみればこれまで二人で話す事はもっぱら子供の事だったが、今やウチラ夫婦にとって子育てはノスタルジーの領域になりつつある。
別に娘が嫁に行く訳でもないが、やはり何かが終わったと感じる。
お互い「父」でも「母」でも無くなる。今はそうではないかもしれないが、いずれ確かにそうなると妙にリアルに感じられる。
「晩春」では父が何度もシャボン(石鹸)を探し家中をウロウロするシーンが出てくる。
だがそこで見失われているのはおそらく自分自身だ。「親」でなくなる親が自分を見失う様が描かれている。
まさが自分が小津作品の親の方にシンパシーを感じる日が来るとは思いもしなかったがw、むしろ核家族において、親は自分で想像する以上に自分を「親」なるロール(役割)に投入しているということかも知れない。
家族とは結局子供のためのものなのだとつくづく思う。
子の無い夫婦は家族ではないと言いたいのではない。
ウチラ夫婦にとって、「家族」とは子を育てるプロジェクトだった気がするのだ。
そしてなんというか、いろいろあった挙げ句、最後のハードルを越えてみたら、だだっ広く何も無い原っぱに放り出されたような気分である。
子供が「手を離れる」というが、手を離してみたら手元に何も残らない。「親」なる自分さえだ。
ウチラ夫婦はここに向かって懸命に走ってきたのだ。
その達成感の無さ、手応えの無さに途方に暮れている。
ちょうどこの2人のようにだ。
せっかくお高い料理を雰囲気のいい店で食ったが、お互い何かを祝うような気分にもなれなかったのは、たぶん嫁もオレと同じようなことを感じていたからかもしれない。