自分にも小さい子供がいるせいで、なんだか最近ずっと薄ーーく考えていること。
「『きかんしゃトーマス』って、昔観てたことあったけど、全然面白くないんだよね」
2011-05-16
その言葉を耳にした瞬間、僕はなんだか冷水をぶっかけられたような気分になりました。
彼はもちろん、いままさに『トーマスバス』から降りてきた僕たちに向けて言ったわけじゃなかったはずだけれど、その声はちょっと大きすぎたのです。
個人的にはトーマスはそんなによい子ちゃんの話ではなく、むしろ性格の悪い貨車とか利己的すぎる機関車が意地悪や嫌味を素でやり合う、日本の幼児教育的環境からはかなりかけ離れたお話しっつー印象があるのだが。。。。
(つかリアルな幼児の関係に妙に近いよね)
そんなことより気になったのが、ブログ主の関心が、子供がそれをどう聞いたかに向けられているということ。
でも、その場で、彼のことばを聞いた子どもたちは、多かれ少なかれ、傷つかずにはいられなかったのではないかと思います。
2011-05-16
ブログ主は大人なので、どこかの誰かが何についてどう語ろうが、そんなことは他人としてはスルーするものだと知っているし、そうできている。
むしろ「トーマス」のような子供向けコンテンツに対しての自分の態度を表現せずにいられなかった若者の「子供」らしさを冷静に見てもいる。
でも同時に子供が傷つくことを気にしてもいる。実際には子供本人にとってもおそらく大したことではないだろうと知りつつ、それでも気にする。
これは過保護だろう。
ここで彼の心配する「子供」は、発言した若者がそうであるような「子供」とは異なっている。
前者は「息子/娘」son/daughterの意味で、後者は単に「未成熟」childhoodという意味だ。彼が心配している「子供」は、「息子」のことだ。
当たり前の話で申し訳ないが、つまり彼の心配は、要するに「息子の父親」としてのものだ。
子供がそんな言葉で本当に傷つくかはわからないし、傷ついたとしてもそう大したことではない。一定の影響があったにせよ、最終的には(成長過程において)自分で乗り越えていくべきものだ。
一般論としてはそうだし、なにより結果論としてそうだ。仮に24歳になって「あの時トーマスの悪口を言われたせいでオレの人生がおかしくなったんだよ」と言われても、いいから黙って仕事探せの一言で終わりだ。
だが「息子」はまだ2歳だ。結果に対する責任は長じて彼自身が取るだろう。では「今」は? 「今」は将来成長した彼の過去という意味しかないわけではない。
彼の「今」の責任はだれが取るだろう?
私たちが権利とか責任とか(自由とか)を言うとき、それを引き受ける個人は自律/自立した存在だと暗黙に前提している。そうと意識しなくても、そうしてしまっている。
だがこの社会はそんな人だけで構成されているわけではない。
これを読んで、以前増田であったこんなエントリを思い出した。今回と同じようなことを考えたからだ(10か月前だ。オレって結構同じことをダラダラ考えてるタイプなのだな)
「ほら、こういうふうにね世間には差別があるの。苦しんでいる人がいるの。
「肉屋、鞄屋の人とは結婚して欲しくない」
あなたのことを大事に思うからこそ同じような辛い思いはさせたくない。
肉屋と鞄屋の人とは結婚して欲しくないという気持ちは変わらない。」
…そうきたか。
どうやら母自身には差別をする気持ちはないのだが
世間からの風当たりを考えてそのような人達と結婚して欲しくない、という考えだそうだ。
いや、差別を容認する姿勢こそ"差別"だと思うんだけど…。
ここで母が「差別的」であるのは、「娘の母」だからだ。
そして重要なのは、ここで母は、一人の「個人」としてなら差別を決して許容しないだろうが*1、それと「娘の母」として差別を容認する態度が共存していることだ。
多分それは「息子/娘」が社会的な権利や責任の体系によって守られていないと感じているからだ。
普通、自己の責任や権利は自分で負うものとされている。ではそれを(未だ)できない人はどうなる? この規範的な考え方に基づいていては、幼い「息子/娘」を守れない。
そう思えば、「父」や「母」は自分自身という「個人」の枠をはみ出して、幼い「息子/娘」に成り代わり、その権利や責任を果たそうとするだろう。
だが多分、これはフェアなやり方ではない。本来、自分の責任は自分で負うべきだからで、抗議したいなら2歳の息子自身が自らの責任で行うべきなのだ。これ以外のいかなる方法も、なにがしかの不公正をはらんでいる。
上記エントリで「父」が「息子」が傷つくことに過剰なまでに反応し、反発を招きそうなエントリまで上げてしまったのは、だから自身の(息子を代弁するという)行為の不当性の自覚の代償行為に見える。本当のことを言われ(たと思って)ファビョった状態である。
(最近では東の西行きが似ている。彼が「子供」のために過剰反応とも思える決断をしたとき、その"正当性"を周囲に強弁せずにはいられなかったのだろうと思う。そこに正当性など無いからこそ*2)
実際ここら辺に無頓着な人(つまり「子の親」でない人)には、「父」も「母」も、1人の個人としてではなくそれ以上のものとして語っていると見える。単純にいえば「子」をダシにオレ1人に2票持たせろと主張していると見えるだろう。
(すでに「母の娘」ではない主体であると自己認識しているだろう増田娘による上エントリは、実はそのようなものだ。*3)
だが実際には「親」たちは「2人いるのに2票無いじゃん」と言っているわけだ。
この「社会」の調和や公正は、理念的には主体性・責任能力のある個人だけによって/彼らのためだけにあるように見える。だが現実にはそうでない存在がいる。
しょせん親と子といえど他人である。何が子の本当に望ましいことなのか、親にだってわかるわけがない。過剰に「安全」寄りになるのはある意味仕方がない。もっともらしいことを言う外野も所詮責任を取ってくれるわけではないからだ。「親」が個別的に考えるしかない。
そしてそれは、他人の存在の責任を負うとはどういうことなのか? と考えることだ。
おそらく答えの無いこの問に面して「畏れ」を感じること無しに、社会における「責任」など考えたことにならないようにも思う。
(だから東はじめ、福島原発の件で疎開していく「親」を個人的には笑えない)
責任の能力のない存在の責任をどうするか、子供は1票か0票か、投票権を行使するのは誰か? に社会的な(強い)合意がないように思う。それは「親」ではない人にはどうでもいいことだからだろう。
この関心を引かない問題は結局先送りされ、それどころか、子供はみんな大人になるのだから「子供というものは存在しない」と言って済ませているかのよう、、、、まあ実際この国は子供が存在しなくなってきているのだが。
そして(他人の責任を負うことも含む)「責任」を考える機会もまたなくなってきているわけだ。
*1:母のプロフィールを見れば十分考えられることだ。
*2:結局「オマエが怖いから逃げたんだろ子供をダシにするな」と言われる。行為の責任は個人が負うべきものとの規範を一歩も出ずに。
*3:あれは娘の母からの自立の話だよ。以前書いた->http://d.hatena.ne.jp/Domino-R/20100907/1283852045