啓蒙の届かないところでの差別

どうやら母自身には差別をする気持ちはないのだが
世間からの風当たりを考えてそのような人達と結婚して欲しくない、という考えだそうだ。
いや、差別を容認する姿勢こそ"差別"だと思うんだけど…

「肉屋、鞄屋の人とは結婚して欲しくない」

この増田を読んでちょっと思ったこと。
差別はいけない、というのは彼女の言うとおり、教育/啓蒙の問題で、重要なのはこの啓蒙は個人に対して訴えるということだ。
誰でも差別は良くないと考える。だが考えるのは自分だけか?
増田は自分で考えている、だが母は自分のことではなく増田のことを考えている。
増田のことを考えるのは増田だけではない。
啓蒙はこれをうまく説明できない。多分、啓蒙はあくまで"他人と切れて完結した個人"に対してのみ訴えるからだ。自分が自分自身に対してのみ責任を持って考えるときに役に立つものだ。
母が自分のことでなく他人(娘)のことについて、彼女に成り代わって考えるとき、啓蒙は役に立たない。
母は、自分のことなら肉屋を差別することもなく、肉屋を差別する人を許すこともないかもしれない。増田と同じように。
それは(実際にはともかく、頭で考えるだけなら)難しいことではない。
啓蒙された人なら誰も、自分を他者と対等/平等であると考える(反差別はそこから来ている)。「個人」としてだ。だから他人に課すのと同様の道徳的規準を自分にも課すだろう。
だが肉親は別だ。誰にとっても肉親は一般化できない。
自分自身さえ一般化できても、肉親は自分にとって常に特別である。
これはエゴか? そうだろう。自分の娘は他のどの娘とも違う、この娘への主観的な偏った視線は、そう言っていいなら排除の源泉であり、差別の根源かもしれない。
増田の母が教育・啓蒙されていない差別主義者であるとしたら、ここにおいて、増田との関係においてだ。
それは母に教育が無いのではなく、「母」は啓蒙・教育の届かないところにおり、そこから語っているということだ。
母が「ほら、こういうふうにね世間には差別があるの」という時、それは誰にも肉親がいる、ということを言っている。人間は差別をするものだ、などという薄っぺらい性悪説を言っているわけではない。
以前ちょっと書いたが、ハンナ・アレントは私人の間で差別はあってかまわないと言っている。それが問題なのは公的な領域で行われる場合だと。

ハンナ・アレントは、差別が許されないのは国家/法のレベルにおいてであり、私人の間で「差別」はあってしかるべきだとさえ言っている。

2008-03-17 - OAF

増田の母もアレントも(ついでにアレントの母も)、差別を擁護しているわけではない。ペラい性悪説を言ってるのでもない。人間のある(私的な)関係は、差別を生み・擁護するように働くと言っているだけだ。
そのことについて価値判断はない。そうする基準を我々は持っていない。これをエゴと批判していいのか、啓蒙が語れない部分だ。
(無論、差別の存在を理由に娘の結婚話に介入したらエゴである。しかし増田にそんな恋人はいない)
ブコメid:y_arimが示唆的なことを言っている。

クソ野郎は空気のようにどこにでもいて、親ですらまったく例外ではない。さあ、ボリシェヴィキに売り渡せ。

実の母を売る、それはいかなる意味において悲惨なのか?
この種の差別の告発は、常に子(娘・息子)から行われる。彼らがより啓蒙されているからではなく、子から見て親は社会規範としてあるからにすぎない。自分と親を対等な個人として見ることが可能だからだ。だからこの告発は子の自我の確立=成長の証でもあり、その程度の意味しかない。要は、もう自分のことは自分で考えられるよ、と言っているわけだ。

あなたの考えには同意できないけど、考え方は違うけど、けど一緒に生活し続けたいんだ。

そして多分、差別は個々の人が個別的に、個人的にしか語れない。
差別は一般的な概念で、それに対して誰でも共通して反対できる。ただ誰もその反面(肉親に関して)エゴを抱いており、それが論理的に差別を擁護することになったとしても、またエゴは相互に対立するものであるにもかかわらず、容認されている。教養・啓蒙はここで破れている。

「教養が無いと思われたらそれはそれで仕方がない。人それぞれ考え方は違うんだから。」

もう教養の問題ではない。なんというか、あとは自分で考えるしかない。差別批判の紋切型を連呼すればそれでOK、ってわけでもないのだ。
。。。というビルドゥングスロマンとして読んだ。