アートとしての、ジハードとしての911テロ

アートっつかアーティストってそういうものなのだろうか? というふうに素朴に思ってしまう。

大野さんとの議論の落ち穂拾い

いや別にオレにアートなるものに関して何らかの思想なり信念なりがあり、それに反すると感じるとかではなく、このような定義/態度を彼自身疑問に思わないのかな? ということだ。
作品論の難しい議論には首を突っ込まないよ。

たとえば個別的には、彼の言っていることの多くに個人的に異論はない。
それがアートであるかどうかなど、ある事象を社会的に評価する上ではどうでもいいことで、考慮する必要などない。無論それがアートとして優れているかどうかなども。

この騒動のお相手であるid:ohnosakiko氏の言っている通り、アートとは単に結果であり、それ自体としての意味など持たないからだ。それを論拠に何かを主張できるなどあり得ない。アートなど「客観的」には存在しないものだからだ。

高橋氏とのブコメ議論まとめ:Ohnoblog 2

それでもアーティストを自称する者はおり、アートなるものが存在すると主張する者もいる。

芸術としてあのテロを論じることが困難なのは、美的に設計している作者が(おそらくは)いないからだ。ビン=ラディン達が、あのビルにこの角度から突っ込めば美しい/インパクトが高い、という意図のもとに計画を立てたのであれば、これは芸術作品と呼びうるだろうが、そういう話は今のところ聞いたことがない。

単にビンラーディンがアートなど信じていないから、そこにアートの存在を可能にするバーチャルな空間が生起しないだけだと言っている。

だからぶっちゃけてしまえば、アートなるものが存在すると主張する者達の間にのみアートは存在し、その観念的な空間でのみアーティストが存在しうる。
スカラー波を信じる者たちの間にのみスカラー波が存在し、彼らの行動に現実的な影響を与えるスカラー波の威力もそこにおいてのみ存在するようにだ。

ただ違和感があるのは、結局は"自称"のうちにしか存在しないアーティストにとって、アートがスカラー波などとは何か異なったものだと観念されているらしいことだ。
少なくとも「アートとして論じる」人は、この社会にはアートなるものの占めるべき固有の居場所が初めから用意されていると安易に思っているらしい。そもそも"アート"が実在すると素朴に信じられている。
でもそれ、キミとそのお仲間の頭の中にしかないから。

今回の問題において、行為者がそれを"アート"だと自称したことに呼応し、「アートとして論じる」と不用意に言ってしまう人は、実際のところそうすることによってそれをアートとして存在させようとしている。
本人がなんと言おうがそれは単に行為であるにすぎないものだが、それを「アートとして論じる」という態度そのものがそれはアートであると主張している。重要なのはこのアートと(暗黙的に)名指す行為、その政治性が、その後アートなる概念により隠蔽・免責されることだ。

だがそれは、社会的・政治的・宗教的・心理学的・思想的・その他どのような基準から議論しても同じく傷つける可能性はあるのであって、特に芸術として扱うときにのみ被害者たちが傷つくわけではない。


このような言い方は、結局アートを免責することを意図しているとしか言えない。
ビンラーディンは宗教的にあのテロ行為を免罪・肯定するだろう。特定の宗教的な価値体系が内輪の論理でテロを肯定的に語り、殺人者に"お仲間の頭の中"で何らかの評価を与え、結果的に擁護するだろう。

彼らも、テロ行為は現実・社会的には許されないことだと考えているだろう。だが宗教はその越えることを許されない線を越えるための方便として使われ、その後に行為の意味を"宗教として論じる"ことで異なった位相で擁護する。だがその場で宗教そのものが批判的に見られることはない。
それはあくまでも内輪においてであるが、彼らが内輪で評価=擁護されることが、現実において罪にまみれて死ぬほかない彼らを励ますだろう。
現実のテロ行為の実行とその免責を"宗教"が強く示唆している。

彼らの行為を「宗教的に論じる」ことで、テロは聖戦 ジハードと名付けられ、現実の価値体系とは別にそれとしての意味や価値があるかのように語られる。
だが、それに固有の意味がある(かのように見える)のは、それをジハードと名指す行為が先立ってあるからだ。ジハードと名付けられなければただのテロである。

彼らが狂信と見えるのは、別に彼らが何かを強く信仰しているからではない。そこに自己の価値なり内面なりを相対化し、批判的に見る視点がないからだ。
この「名指す行為」の持つ政治性が彼ら自信により批判的に見られる事は無い。結果的に現れるジハードなる宗教概念が、自身を純粋に宗教的存在だと錯覚させ、現実社会的な政治性をルーツに持つことを隠蔽するからだ。

911をアートとして論ずることができないなどと言っているが、だからそれは嘘である。
ビンラーディンが任意のテロを勝手にジハードと名づけ得るように、実行者がそうと意図しなかった911テロをアートと名指し論ずることに何の障害も無い。
例えば「超芸術トマソン」は、そうと意図されていないものをアートと名付ける行為だった。
だがそれは同時に「アートと名付ける行為」自体がアートとして表現されている。
そのようなアートが成立し得るのは、本人が作品に込めたアートとしての意図などによるのでなく、自身がアートと名指す行為それ自体の政治性に相対的・批判的であるからだ。ここで狂信を免れており、アートとでも呼ばなければ説明がつかないものとして立ち現れている。

"アーティスト"達が(ビンラーディンのように)悪意に基づいて自身の政治性を隠蔽し、社会的な免責を主張している、と言いたいわけではない。
むしろ今回の事件に限らず、ある事柄を「アートとして論じる」という態度に、自省が、「アートと名指す」行為の社会性・政治性の意識がないと感じるのだ。
「アートとして論じる」という行為自体が、自堕落に自己=アーティスト=アートを自明視し肯定するだらしのない行為にしか見えないのはそのせいだ。
アートなるものが存在する、と緊張感なく信じ込んでしまっていると言ってもいい。だがそれはアートと名指すという行為によって政治的に存在させられたものだ。

むしろ自省を、アートと自称するもの/ことが社会において結果的にアートとして果たしてしまっている役回りとその責任を、回避する手段として、「アートとして論じる」態度が選択されているように見える。アートなる語を振り回しながら、社会からアートを(その責任を)消去しようとしている。
以下はその例である。

この作品がアートであろうがあるまいが、被害者女性を救う方法に変わりはない。


これは「アート自体には不逮捕特権がある」と言っているのと同じだ。
そのとおりではあるのだが、それはあくまで"アート"なるものは存在しないからだ。
だがそれをアーティストがさも当然であるかのように口にする。他方で「アートとして論じる」ことを手放さずに。
これをどう理解すべきだろう?