YMOについて

YMOの凄さについて語ってくれ:はれぞう
ちょっと前にこんなのを見つけ、ブコメとかも見てみたが、要するに何が凄いのか全然わからないまま。多分、影響がかなり広範囲にわたっていて一言では説明しにくいのだろうけど。
で、モヤモヤしたままではシャクなのでYMOの何がすごかったのかについて考えてみた。
つっても自分だってYMOの時代にはまだ全然子供で何も覚えていない上に音楽のことなんてわからないが、かろうじてYMOと生きた時代が重なっている人間として、現象としてのYMOについて調べりゃすぐわかることも調べずに妄想半分で書く。音楽自体については書かない。

電子音楽

電子音楽としてはクラフトワークというのが先行しているらしい。そもそもシンセサイザーなんてスティービー・ワンダーあたりだって使ってるわけで、その意味ではYMOはパイオニアではないらしい。
ただYMOのテクノポップっつーのは一定の衝撃力を持っていたわけで、それは社会現象にまでなっている。
YMOの仕事の意義を要約すれば、シンセの電子音がジャンル(テクノポップという)そのもの、およびそれに付随する社会イメージを立ち上げたということだろう。
で、重要なのは"付随するイメージ"の方。彼らが社会現象にまでなったのはそのイメージによってだ。
たとえばそんな例にはエレキギターとロックがあり、エレキギターとロックミュージックの組合わせは固有の社会的なイメージを今も持っている。反抗的とか若さとか自由とかそんなだ。
そんなイメージを作り上げたのが誰だか知らないが(ビートルズとかローリングストーンズっつーことになるのか?)、彼らの楽曲そのもの、音/パフォーマンスそのものというより、その持っていたイメージ/メッセージ性が人々に訴えかけている。
彼らはロックミュージックの始祖ではないだろうが、ロックなるもののイメージ、それが象徴するある(当時として新しい)社会的態度を創造している。
YMOに関して思うのもそういうことだ。
たとえばシンセサイザーの電子音に「未来」のイメージが最初に付加されたのは、たぶんYMOのテクノポップによってだ。多分そのことによって「テクノポップ」が新しい音楽ジャンルとして成り立った。固有の社会的イメージ/メッセージを獲得したわけだ。
元スレに貼られたクラフトワークの音楽を聴いても、あるいはスティービーや喜多郎を聞いても、電子音が「未来」を直接的にイメージさせるものとしては使われていない。ただそのような音色の楽器として使われている。
クラフトワークあたりだと、電子音が、合理性や(抑圧的な)システム/体制、先端技術=巨大産業の喩として使われているようにも思えるが、未来世界をイメージさせるものではないようだ。
(良く引き合いに出されるコンピュータゲームのイメージも、基本的にこの線を外れない)
多分電子音と未来イメージの結合は、当時流行のニューサイエンスや神秘主義の影響から来ている気がする。両者がなぜ結び付いたか知らないが、たとえばYMOに先立つ映画「未知との遭遇」では宇宙人との交信に電子音が使われている。
そして本当に重要だと思うのは、テクノポップ=電子音的「未来」が、それまでの「未来」と異なっていることだ。

不吉な未来イメージ

神秘主義の影響だろうが、電子音=未来は、従来のような未来イメージとは異なって、非合理主義的・精神主義的なものとして表現されているように思う。
例えばそれ以前のSFなどに現れる「未来」は、科学や理性・知性、合理性の高度に発展した世界として描かれている。たとえそれがディストピアであったとしても、合理的な計算に基づいて管理・計画された社会がベースになっている。
当時、もう既に科学万能主義は無い。
それでも科学の発展自体を疑う者はいなかったし、むしろ不可避の科学的発展が人間を抑圧する、というのがディストピアのモチーフだ。
だが、YMOの電子音およびビジュアルイメージが語る「未来」は、そのようなものではない。
当時のYMOは人民服をモチーフにしており、またわざわざYellowMagicなる語を使用している。
これは明らかに(西欧的な)オリエンタリズムを意図しており、はっきり言えば、それは西欧から見たアジア、「反理性=狂気」「野蛮」「未開」の表現だ。
コンピュータという高度の理性=テクノロジーと結びつき高度に洗練された、混沌=非理性や原始的・身体生理的欲望、YMOの描き出した未来はそのようなものだ。
(この「未来」表現は多分、80年代サイバーパンクの基礎的な世界観を形作っている)
しかもそれがシリアスに語られず、よりによってポップとして(あたかも肯定的に)表現されている。
もはや理解不可能な他者としての非西欧世界、狂気の場所、理性によってもたらされるディストピアより悪いものとしての未来社会。
ファナティックで東洋的な全体主義*1が、西欧理性の文脈では理解不可能なものとして、「不気味なもの」として表現されている。

もうひとつの世界

その意味では、テクノポップの描きだしたのは「未来」というよりは(西欧=理性にとっての)「もう一つの世界」だと言ってもいい。端的には東洋的な非理性世界。
この「未知の世界」からの音楽として電子音によるテクノポップがある。これは"理性"にとっての「未知との遭遇」だったわけだ。
当然これは西欧からの視線であり、西欧から見られるものとしてテクノポップはある。そこには実際には(たとえ人民服を着ていようが演者が日本人だろうが)アジアなどは無い。そんな「世界」は実際には無いヴァーチャルなものだ。
この種のヴァーチャルな「世界」を形成することは、別にシンセサイザーによって初めて可能だったわけではない。映画やアニメ、文学にだって可能だったが、現在、他ならぬコンピュータこそが特権的にそれを形成できるとされるのは、その表現力によるよりは、たぶんYMOさんの仕事のおかげだ。
コンピュータは、現実とはまったく異なる「世界」を作り出してしまうというイメージ。
そして現在もある、仮想世界に対する拒否反応は、それが我々の理性・理解を超えたものであるという(YMOがもたらしたかもしれない)イメージに基づいている。そこは我々の狂気が、理性の制御できない、身体生理的な欲望が露出する場であるというような。

テクノロジーと野蛮の結合

だからじゃあ何がすごいの? っつったら、やっぱりその後の「未来」観を多分一変させたことだろう。テクノロジーに対する視線を変えたと言ってもいい。
高度なテクノロジーが人間を抑圧するのではない。テクノロジーによって人間理性が後退し、むしろ野蛮・狂気・非理性が露出してくる。
この不吉な未来像は、「エヴァンゲリオン」のような理解不可能な、グロテスクなSF世界のベースにもなってる。
テクノロジーは我々を統制・抑圧するのではなく、理性を蝕み身体を侵食し、我々の内部に食い込んで身体=非理性を暴走させるのではないか?*2
これは、科学万能主義の終焉がもたらした暗い未来とは異なるもので、現在まで続く未来観だと思う。

*1:これは(ハードロック、パンク系にありがちな)アナキズムファシズムとは違っている。それらは合理的・個人主義的で、西欧理性の文脈からその発生を説明できるものだ。

*2:坂本教授はマルクス主義者だが、YMOのパフォーマンスにおける人民服は明らかに中国文化大革命の「野蛮の暴走」を連想させることを意図している。