それは「自由」として語って良いものではない

呼ばれたので。
ブコメにお返事とか:革命的非モテ同盟跡地
少なくとも「規制派」とされる人たちの一部は、このエントリにあるような「反対派」の無責任さにいらだっているのだと思う。
同エントリのブコメにあったものだけど、これがある意味典型的だと思う。

id:unorthodox 私も手慰み程度にはエッチな漫画を読んだりするけれど、その度にどこかの誰かに対して「不当な人権侵害」を犯していることになるのだろうか。意味が分からない

この種の勘違い、あるいは非社会性は良く見られる。
今回の規制は個人の「内心の自由」を規制するものでは全く無いし、(エロ、ロリとかの)私的な嗜好や楽しみ自体が社会的に問題であるなどと言っている「規制派」なるものもそうはいないと思う。*1
今回の規制は、エロを売ったり買ったり楽しんだりすること自体を全く規制していない。極端にいえば「表現の自由」なども特に規制していない。ただ場所を選べと言っているだけだ。
無論それも、好きな「場所」で表現する自由を侵していると言えるが、それは左側通行を定めた道交法を、ドライバーの「表現の自由」の侵害だと言うようなものだ。
確かにそういう言い分は可能だと思うが、そういうレベルの話をしているのではないだろうと前提して続ける。

現に流通していることの意味

この件に関して基本的に問題になっているのは、それがどのように社会的に流通しているか、ということで、規制をかけようとしているのもそこだろう。
たとえば少女を性的な対象として扱うような漫画は、それ自体が問題なのではなく*2、それがどのように流通しているのかが問題。
それが市場に流通しているという事実は、その表現内容が市場に肯定されているということ、社会的に容認されたものであること、を意味しかねないからだ。
何かを表現するという行為自体は常に肯定されるだろうが、その内容に関しては、社会的に擁護できないということはあり得る。
しかしそれが(たとえば単なる商品であるという名目で)大手を振って店頭に並ぶとき、そのこと自体が発するメッセージについては誰が責任を持ってコントロールする? 多くの「規制派」の問題意識はたぶんそこにある。繰り返すが、表現内容自体がではなく、その表現内容が表だって流通しているという事実
が持ってしまうメッセージについてだ。
それが市場に受け入れられ日常的に露出するという事態は、たとえばロリを「陳腐化」するだろう。「日常化」といってもいい。
少女が性的欲望の対象物としてのみ表象されるようなビジュアルイメージ*3が「日常化」することによる「被害」とは何であるのか? はここでは問わない。全く問題ない、と考える人もいるだろうが話が合わなそうなので突っ込まない。

暴力をもって表現すべきは暴力の結果の悲惨さなのかもしれない。:横路的横道徒然日記。
(すでに見れない。(オレだけ?)し、本人も撤回?してる主張なので批判ではない。ただ「責任主体」についての考察であるので例示する。)
その作品がそのいかに反ロリ・反暴力のメッセージを持っていようが、そんなことに意味はない。断片的なビジュアルイメージは文脈とは無関係に存在しうるからだ。*4
つまり、それが市場において結果的に何を意味してしまうかは作者がどうこうできる問題ではないし、する必要もない。実際「規制」は作者に何も求めていない(自主規制など愚の骨頂である)。

メタメッセージ

同様のことは暴力表現にも言えるはずで、わかりやすいので取り上げる。
たとえばテレビや小説・漫画では毎週のように人がむごたらしく殺されている。一定のコードはあるだろうが、まあやりたい放題である。
にもかかわらず、たとえば殺人の表現が(ロリと比べ)問題にならないのは、すでに殺人という行為自体が(現実において)明確に違法であるからだ。
作者が作中でどのように表現しようと、殺人は社会的に容認されない行為である、とのメッセージが法によってすでにメッセージされている。
つまり刑法が、殺人表現に対する"メタメッセージ"になっている。殺人に無反省な主人公だったとしても、それは肯定されない行為なのだという認識は社会的に共有されている。繰り返すが、これは社会的常識などというものではなく、ある主体による明確な社会的メッセージとして存在している。
一方で、今回問題視されるような表現については?
性的な行為であれば、それが私的な領域における私的なものである、との言い分は常に可能だ。
仮にそれがいちじるしく社会通念上許容しがたい行為であるとしても、また(性)差別的でもあるとしても、現在それらは法的に明確な禁止はなされておらず、個別的にも、それらが混在した行為であっても、合法的である。
私見だが、私的な性的ファンタジーにおいて性的対象は単にモノとして見られ、扱われている。それは(少なくとも男には)ままあることではないかと思うが、それがそのまま表現されれば普通に差別表現である。
異論はあろうが、個人的にはこの差別的表現がなされることまでは許容していいと思う。
ただ、それを容認しないとの"メタメッセージ"も社会的に要請されるだろうと思う。個人の内面のおける自由と、社会的な表現の自由を単純に同一視できない。社会的に容認できないことがらというのはあるからだ。
そしてそれは作者の仕事ではない。では誰が?
「反対派」にはこの視点が欠落しすぎている。この空白に行政が入り込んでいる。

見たいなら見れば?

それが社会的に擁護され得ない行為である、と誰かがメッセージする必要がある。
ゾーニングはその分かりやすい方法だろう。
たとえば「隠す」という行為は、それ自体がメッセージである。その場合、何としても凌辱モノを見たい中学生が年齢を偽りペアレントフィルタを回避しそこにアクセスすることには特に問題はない。
アクセスを禁止することは目的ではないし、意味もない。個人の嗜好を禁止することなど法的にも現実的にもできないからだ。
ただ「隠されている」というメッセージに触れればそれで十分である。それは必ずしも社会的に擁護されないものであると知るだろう。「規制」が発するメッセージとはそれであって、禁止ではない。

「健全な成長」

それが自治体によるものであることが必要だとは到底思えないが、それでもなんらかの規制=メッセージは必要であると考える。
それが社会的に容認された行為であるかどうかは、個人の他者への振る舞いには明らかに影響するからだ。
普通に奴隷がいるような環境で育てば、奴隷制に心を痛めることもない。それを差別主義と単にいえるかは微妙だが、しかし被害者がいないわけでもない。
普通に日常的に目にするものに(それが他者の目からどれほど異様に見えようが)疑問を見出すことは難しい。木につるされた黒人奴隷もそれが日常の光景なら単に「奇妙な果実」にすぎない。
人々の(複数形注意!)自由のために、何かの方法で「奴隷の存在しない光景」を見る必要がある。
何故規制され、隠されねばならないか? 
禁止=個人の自由を制限するためではなく、隠されて初めて見えるものがあるからだ。
人は単に自由なわけではない。社会生活を送るなら社会において自由であるべきであって、死にゆく奴隷が「果実」でなく自分と同じ「人間」であると気づくことは、そこに「他者」を見出す=「社会」を見出すことであり、それこそが「青少年の健全な成長」とされるものだ。*5それは個人の自由を損なうことだろうか?
他者を見出すことを幼児的な全能感が奪われる事だと感じる人がいるのは理解できるが*6、申し訳ないが取り合えない。それは「自由」として語って良いものではない。

おわり

いい加減長くなってきて疲れた。ここまで読んだ人もご苦労様。
そう考えれば、次に問題になるのが(つまり今問題であるのが)、誰がそのメッセージを発するのか? であるのは当然で、今回のような事態ですよ。
問題視すべきは「どのような規制か」ではなく「誰が規制の責任主体であるべきか」ということで、そのような問題意識から該当ブログ/エントリは逃げ続けているように見える。

*1:しかし「反対派」が攻撃するのはそのような(どこにいるのか定かでない)人たちだったりするんだよね

*2:今時、その内容自体をどうこうしようなどという時代錯誤的な人物などいない(少なくとも表向きはね)。誰が何を思い何を表現しようが、それを禁じる正当な方法などない。

*3:たぶん小説と漫画の一番の違いは、この流通イメージの差異。「映像には映像喚起力がない」と村上龍は言ったが、ビジュアルは受け手に解釈の余地なく有無を言わさずにダイレクトに届く。

*4:ここも小説との大きな違いだろう。

*5:無論、伝統的、規範的な異性愛のみを「正常」「健全」であるとするようなバカもいるわけだが。

*6:この規制は成人を対象としていない。