若い男女の自由 2

(先のエントリの続き)

「若い」女の「自由」

単に映画(邦画)だけに限ってしまうと、裕次郎に対応するような「若い」女優は出ていないような気がする。
だから邦画において女の「若者」像ははっきりしていない。スクリーン上には単に若い男に似合うような若い女が出ているだけだ。*1
女が「若い」ということに標準的な形式はあるのだろうか? と考えると思い浮かばない。まあ私自身が男ということもあり単に「見えていない」だけかもしれないとは思う。少なくとも邦画にそれを見出すことは出来ないが、それは日本映画界がいかに(男女構成比的にも価値観的にも)男性社会かを示しているだけのことかもしれない。
別に若かろうがどうでも良くて、気になるのは、男の場合「若さ」と結びついたカタチで「自由」が表現されていたが女は? ということだ。
日本の(若い?)女にとっての「自由」は、具体的にどのような表象を持っているだろう? 「若さ」と同様、日本映画には女の「自由」の具体的なイメージは無かった*2
そして実際の日本社会における女達も同様だと感じるのだ。これも多分自分が男だからだろう。したがって以下は男による視点だ。
男から素朴に見ると、日本の女にとって「若い」という固有の存在様式は無いような気がする。実年齢的な、あるいは服装/化粧を含む消費行動のスタイル的な若さ以外の指標が彼女達に無いようにみえるのだ。
極端な話だが、男から見て若い女は、単に「幼い」か*3、あるいは実質的に「オバチャン」か、いずれかの行動様式/価値観をもっていると類型化できる(他にあるとすれば「男社会的な女」か)。
女には「大人」か「子供」しかいないと言ってもいいが、「子供でもオバチャンでもない」女の「若者」というものの典型的な在りようを思い浮かべにくい。
これは「自由」についても同様で、彼女達が自由である、自由に振舞うということは具体的にどういうことなのかイメージしづらい。
(「若さ」と「自由」の結びつきは裕次郎からの連想で、男性視点的なものでありそれ以上の根拠は無い。つまりピント外れの可能性がある)
男性的な「自由」は結局はある類型に還元でき、実のところあまり自由なものではないわけだが、その男との比較において女はしばしば「より自由」であったり「より不自由」であったりしている。
女が一般に男より自由に振舞っているというのは、バブル以降(均等法以降)よく言われることだが、同時に逆のことも(しばしば女性自身により)言われている。
彼女達には(男にあるような)「自由の紋切り型」、「自由であるためのマニュアル」が無いのだろうかとも思う。だからその振る舞いは男よりも自由に見え、不自由にも見える。
日本の若手男優達がある類型に沿った形でしか演技ができないのと違い、若手女優はより自由だろう。それが彼女達の演技に自由をもたらしているか不自由をもたらしているかはそれぞれだろうが、裕次郎が現れる以前にあった「自由」への可能性は未だあるかもしれない。
これは別に女優に限らない。普通の女だってそうだ。少なくとも普通の男はそこに女の「自由」を見ている。同時に、キツそうだな、とも。
平均初婚年齢が上がり、女が「母」になる時期が(場合によっては無限に)遅延するにつれ、女が「若い」/「若くない」ということが結構問題になってくるような気がする。それは女が自由に生きるとは具体的にどうすることかということで、実のところちょっと前に話題になった「負け犬の遠吠え」ってそれがテーマだったんじゃないかと思う今日この頃。
※この項さらに続く

負け犬の遠吠え

負け犬の遠吠え

*1:そもそも主役を張れる若い女優自体が少ない。若いうちから主役級なのは、吉永小百合桃井かおり薬師丸ひろ子とか、、、思い浮かばないなあ。。

*2:例えば少女漫画などを見ればそうでもないのかもしれない

*3:日本の若いテレビ女優や女性アイドルの見せる幼児的な仕草はちょっと他国には見られないものだ(90年代以降の韓国にはいる。日本のトレンディドラマの影響だろう)。