そろそろ誰か新自由主義に対するトータルな対抗理論を言っとく必要があるのでは

秋葉原の事件が起こった時には栃木の山奥にいて情報から遮断されており、帰ってきて始めて「既に起こったこと」としてニュースで知った。
そのせいもあり、個人的にこれは事件というより、単にみんなの間で話題のニュースに過ぎない。発生直後の(報道等の)緊迫感を見ていないからだ。
だからこの事件はなにか遠い。この問題について語る多くの人たちと(緊迫感を)共有できないと感じる。だから以下のような、危機感の無い感想になるのかもしれない。
この事件の犯人を日本社会の何がしかと結びつけることには慎重になったほうがいいと思う。確かに現在の社会・経済・労働環境との関連を見ないわけにはいかない事件だが、それでも彼の個人的な(共有されない)パーソナリティや育成歴などがこの事件の決定的な要因だろうからだ。
だがそれでも(ネット上では特に)、これが日本社会の現在のあり方の影響を受けているとの論調が多い。
彼の事件において「他者がいない」との秀逸な批評が語られているが、それでも池田小のときのように、彼個人が原因そのものであるとの論調にはなっていないようだ。
実際には彼自身が原因そのものである。だがそう語られないのは、これを社会問題として見ざるを得ない我々がいるからだ。
この件に関し我々の危機意識は、この事件そのものではなく、日本の社会・経済システムの現状に基づいている。それが我々を饒舌にする。そして彼もまた、事件によってそれを語ったように見えるのだ。
言い換えれば、我々の漠然と感じていた危機感がこのような形を取って現前した、と見えてしまう。
実際、本当に危険なのは、今回のような凶悪犯罪というより、この状況の方だと多くの人が(あるいは意図せず)語ってしまっている。
この種の凶悪犯罪に慣れてしまったのかもしれない。本当の問題は現に起こった殺人ではない、とでもいうかのようだ。
つまり彼は忘れ去られるだろう。事件は覚えられていても、それは彼の事件としてではない。皮肉なことだが、彼は契約期間を終え去った派遣社員のように忘れ去られるのだ。
ひょっとしたら時代を反映しているかもしれないこの犯罪の実行者が忘れ去られるのは、多分彼自身の言葉を持たなかったからだ。恨み言でなく、社会への批判・洞察を残さないから忘れ去られる*1。陳腐でも紋切り型でも借り物でもいいから何がしかの批評を表現できていれば、彼はこの事件の主役たり得たろう。
彼に成り代わり多くのブロガーが批判するのは、彼の置かれた労働環境とそれを許している産業システムだ。
この問題は数年来語られてきていて、もう輪郭や構造ははっきりしている。
だが具体的にどうすればいいのかということについて我々は言葉を失う。彼が分断され孤立した状況にいたことは重要な要素として誰もが挙げるが、労働者のこの孤立を乗り越える具体的な方法について語れない。我々はそこで止まってしまうのだ。言葉を持たないのは彼だけではない。

労働者階級の連帯を言ったのはマルクスだが、資本主義システムに対するトータルな批判の理論体系は未だにマルクス主義しかない。
いわばマルクスの下においてのみトータルな連帯が可能なわけだが、いまやマルクスは死んでいる。我々の「失語」の原因だろう。
実際、古典的な(資本家-労働者)図式では、彼のナイフに倒れた人たちは彼の「味方」だ。
何故彼のナイフは敵ではなく味方に向かったのか? それは味方であって欲しい人達が味方になってはくれなかったからだ。孤立とはこのような状況を指す。
そして連帯を阻まれ孤立した弱者は別の孤立した弱者を殺すわけだ*2。孤立していることと弱者であることは双方が双方の原因である。
実際、神の死後もバチカンローマ法王はおり信仰を説いているが(どの程度相手にされているかは知らないが)、マルクスの死後、日本に「孤立を乗り越えること」を説く何者がありうるだろうか?

*1:掲示板や卒業文集をあさってもどうやら出てこないようだ

*2:身も蓋も無いくらい的確な見方 ->怨嗟の街:Chikirinの日記