存在してることとは他人にとって存在していること

先日とは全然違うことを書く。個人的にこの(秋葉原の)事件についてはどう考えていいかよく分からないからだ。。
マスコミはオタク叩きなんかしてねーって:解決不能

ほんの少しでも「オタク」要素を匂わせる報道があっただけで、鬼のようにメディア批判し始めるのってどうなん?いくらなんでも被害者意識が強すぎるんじゃね?少しでも自分達の属性にマイナスになるようなニュアンスが含まれていると判断したなら、大勢で大声で大仰に声を上げる。


オタクのせいにしているメディアも無くはないのだろうが、確かにそう多くはない。
それでもヲタが吹き上がるのは、多分嬉しいからだ。
表面的には彼らは憤っており、もっともらしいメディア批判を展開しつつ悦に入っているわけだが、実際のところ、このような問題でほかならぬ自分達がマスメディア様に名指されることが嬉しいのだと思う。(無論本当に憤っている人もいるだろうし、2ちゃんあたりの反応を典型的なオタクの反応と見るのも無理なことだが)
「オタク」という名はいまや世間的にそれなりに通った名だし、その知名度に比例するくらいにはオタク自身もオタクとしての自意識を持っているだろう。そんな彼らが突然世間の視線の中心に置かれたわけだ。確かに否定的な視線だが、それでもあの高揚感は何かの(悲劇の?)主人公にでもなったような気分なのかもしれない。
この種の「注目されることの快感」はわからないではないが(なにかいっぱしの存在にでもなったような気になるのだろう)、みんなの注目を浴びたい一身で教室で暴れた80年代のバカな不良中学生のようでちょっとかわいそう。
こんな機会でもなければ、皆に名を呼ばれ、注目されることが無いからだ。今も基本的にヲタは(自意識的には)日陰者なのだろう。
(つーかテレビカメラを向けられ無邪気にはしゃぐ子供のようなものか。ピースサインとかして)

「私」は他人の視線の中にこそ存在する。私の社会性は他人の視線の中にのみあるものだ。
この事件を劇場型とする論者は多いが、この犯人もまた誰にも見られないことによって「透明な存在」であったのだろうか?
継続的な人間関係の中にない派遣社員という身分にあって、彼のごく当たり前の自意識が注目されたいという欲求に転化したとしても、これを「強い自己顕示欲」と切って捨ててしまうのはためらわれる。
それは単に誰かに見られたい、名を呼ばれたいということにすぎず、つまり「存在したい」ということにすぎないかもしれないからだ。これは誰にでもあるものだ。
メディアの批判的な視線を浴びて、オタクは自らが他人にとって存在することを再確認したろうし、それ自体は素直に嬉しいだろう。別に不自然なことではない。。
だが彼は?
そう問えば、本来これは社会問題というより、彼の周囲の小さな世界の個人的な問題だったのだといえる。彼がこの種の「喜び」を得られなかったのは、必ずしも彼の労働環境のせいではない。。。
ただ現在、同様の問題を多くの個人が個別的に抱えていて、とりわけ派遣社員の労働環境においてその傾向を見出せるせいで、社会問題のように見えるだけだ。

労働環境の改善は必須で、それはこのような犯罪の起こるリスクを低めるだろうが、しかし例えば貧困は社会問題だろうが、孤独はそうではない。
しかし一定数以上の人が、ある特定の環境のもとで、類型的に孤独であるなら、これは社会問題だろうか?*1 そう考えることは可能だと思う。
ただそれは可能である、というだけだ。「自己責任論」を論駁するまでの説得力を持つものになるかはわからない。
余談だが、札幌の地下鉄のホームの壁には大きな鏡がある。自殺志願者が鏡に映った自分を見て思いとどまる効果があるからだそうだ。無論鏡は「他者」の喩であり、「視線」には人をこの世に繋ぎとめるチカラがある。

*1:現在非正規雇用は3割を超え、上昇し続けている。