被差別者の内なる差別者と告発者

掲示板で加藤容疑者に「友達になろう」と言った人がいることはよく知られていると思う。
それに対して彼はこう返している。

それは嬉しいですけれど、私と友達になってもあなたにとっては何のメリットもないですよ


別に大して意味のない返答だろうと思っていたが、以下はこれについての面白い視点と感じたエントリ。言われてみれば確かにこのレスには何か「身構えている」感じがある。

『真の愛の実現』という妄想 〜 秋葉原殺傷事件に思うこと:電脳ポトラッチ

友達になりたいと言ってくれた女性に対しての加藤のレス。「何のメリットを求めているのか」、「これ以上俺から何を奪おうというのか」という根深い猜疑心・人間不信がかいま見える。〜

というより、彼女と友達になってしまったら彼の主張が誤りだったことが明らかになるからだ。
彼は彼女と友達になりたいか? なりたいだろうし状況が許せばなれただろう。だが彼は自分が説得されること、彼女との出会いによって今の自分が変わってしまうことを恐れている。それは自分の主張してきたことが間違っていることを意味するからだ。
彼が否定の言葉を投げかける自分の(悲惨な?)状況こそが、彼の主張の正しさの証拠で、それは彼自身の正当性とイコールだ。そして自分の主張の絶対的な正当性こそが彼の唯一の「よりどころ」になっている気がする。
彼にとっては、現在の彼という存在は自分の主張の正しさを体現する客体である。
被差別者には差別されてあることで初めて手にできる「メリット」があり、そのために現在の彼は彼の告発するような状態に留め置かれる必要がある。
上記エントリで書かれているように

彼は「何をすべきか」の答えを求めて書き込んでいるわけではない。「何もしなくてもいい」と言ってもらうために書き込んでいるのだから。

彼は賛同者を待っているだけだ。自身の否定的な状況から救い出だしてほしいわけではない(そんなことをされては困る)。だから彼女の善意に身構える。
この文脈で「非コミュ」とは、結局今の自分が何より大事で、他者の無償かもしれない善意より自己の手前勝手な正しさ=「メリット」を優先する態度そのもののことだと言っていい。現実的なコミュニケーションスキルのことではない。
この心的な態度、自らの絶対的な正しさを唯一の窓口としてしか世界を覗き見られない自我の脆弱は、自分を客観視することから生まれている、というと肯定的なようだが、自己に対する責任、自分であることの責任を放棄した態度だろう。*1
悲惨な自分を告発的に語ることで、彼は告発者として世界に参入し、強者の言説を手に入れる。弱い自分がずっとそのままでいることは彼が告発者であることの必要条件であり、それによって彼の強者の論理は維持されている。
自分を、現実の弱い自分とそれを批評的に見る強い自分に分割し、強者が自らのメリットのために弱者を利用するという構図は笑えない。彼の外側の状況がそのまま彼の内面に移し変えられたかのようだからだ。
そしてその意味で彼は社会に過剰に適応したのであり、彼は現実の弱者として敗れるべくして敗れ去ったのだ。彼がこの(コミュニケーション弱者/経済弱者という)現実に反発できなかったのは、社会の構図=強者の論理を自分の内面に無批判に受け入れ過ぎたからかもしれない。

*1:ここから新自由主義者の言う「自己責任」に言葉面から連想的にズレていくことは難しいことではないが、ここでは違うことを言っている。新自由主義者の言うのは単なる精神論だ