人間は誰も単なるViewではないだろ

Google Street Viewは、確かに自分と関係ないところを見ている分には楽しいし、そこに(見知らぬ)誰が映っていようがぜんぜん気にも留めない。普段街中ですれ違う人を気に留めないように。
だがそれは見ていないということではない。すれ違う美人には即座に気づくことからも、やはり見ていはいるのだ。
自分の見知ったところを見て回るのも楽しいだろう。だがこのエントリにあるように、見知った人を見るというのは「きもちわるい」人もいるだろう。
きもちわるい:北沢かえるの働けば自由になる日記

家が映っているぐらいじゃなんとも思わなかったんだが、ご町内をぐるりと回ったら、知り合いが何人かリアルに映っていて、それがまったく無防備な状態でだったのに驚いた。お年寄りなんて、散歩の途中なのか、ボーっとした顔して、歩いている途中だった。同世代の知り合いは、いつものように出かけるところに、車が来たから避けよって感じ。

道でリアルに人と出会った場合、その人が知り合いであれば相手もそれなりの対応になるだろうが、GoogleCarには知人に対するような態度をとらないわけだ。
そんな彼を見ることは、いわば私が彼を他人の目で見ることで、自分の姿を隠して見ることだ。匿名議論によくある問題がここにあるような気がする。ことの良し悪しとは別に気味が悪いし、何か卑怯/卑劣な行為だと思えるのだ。
それは(旧知の二者間で暗黙に約束されていた)彼と私の視線の等価交換?が一方的に破られているからだ。その意味でこれは詐欺的と言ってもいい。
だからこの種の技術に「きもちわるい」と感じる人は、多分自分が見られることより、知人を見てしまうことのほうに違和感を持つだろう。暗黙の約束を破ることの罪悪感がある。*1
Street Viewに映っている人は誰でも、一人残らず全て、何らの人間関係/社会関係や、この種の「暗黙の約束」を持っているだろう。
この種の「黙契」を、明示されていないことを理由に無いものとして扱う態度は、人間/社会関係を法的な観点からのみ解釈しようとするものだ。自分を取り巻く社会関係がすべて明文法の文言に収斂してしまうはず無いことなど誰でも知っているが、あえてそのような態度を前面に押し出すことでGoogle Street Viewは可能になっている。そこに映った人間をView(風景)に過ぎないと見做せるからだ。
そして多分、本当に「きもちわるい」のはこの態度、法体系こそが現実社会であるというGoogleのこの倒錯した(あるいは割り切った)社会関係に対する認識/態度だ。
Googleが人間を明文法的なだけの存在として規定したとしても、それに反駁するチカラのある人はそういないし、弱者としては彼らの定義する「人間」に適応するしかないのかな。Street Viewに映った知人の画像も、何度も見ているうちなんとも思わなくなるだろう。
つまりそんな「約束」など初めからありはしなかったのだ、という言い分も受け入れざるを得なくなる。
以下これに関連してちょっと面白いエントリ
Google の中の人への手紙 [日本のストリートビューが気持ち悪いと思うワケ]

*1:無論それ自体はStreet Viewが無くても日常的に起こりうることだが