村上春樹という名を名指すことについて

なんか全然終わらないのね。村上春樹関連。
で、前回書いたエントリを読み返し、我ながらあまりにヒドく意味不明な内容なのにショックを受けてちょっと倒れていたが、とりあえず立ち直って書く。。。
ヒドイ内容であまり関係無いのにトラバしてしまってしかもコメントまでいただいてゴメンなさい>id:tikani_nemuru_M 。。コメント欄でもにゃーにゃー言うのね。。。
落ち着いて反省してみると、自分の関心事は村上文学でもイスラエルでもないことに気づいたので、それを書く。したがって今問題になっているような件(村上への手紙とかその政治的な圧力とか)とはズレる。そういうエントリを期待する人はここで引き返すように。もう終わった問題だと感じられるかもしれない。
また便宜上mojimoji氏の文言を引用するが、それは物事について、具体例を持ち出さずに抽象的に考えるのが不得意だと身に沁みて自覚したためで、具体的に彼を批判あるいは擁護するためではない。
(実際、以下に書くことがmojimoji氏に完全に妥当するわけではない。彼のような物言いをする人が彼の後ワラワラ出ているようで、そちらのほうをむしろ意識している)
私の関心事は、mojimoji氏等による、村上を読んでいなくてもその行動を取り出して批評・評価し得る、とする態度の持つ意味、および是非だ。先のエントリでの「固有名を名指すこと自体の政治性」ということと同じ。

まず、ある人物の発言/行動の一部分を、その人物の全体とは別に批判しうるか? と考えれば、当然できる。むしろ発言の一部分をその人の全人格に結び付けて語る方が問題だ。一般に批判は対象の具体的な部分に対するものだ。
では、村上春樹を知らなくても、その一部分を現に目にしさえすれば、それをもって村上を批判しうるか?
これはこう言い換えられるだろう。村上の一部分を批判することと、村上の一部分しか知らずそれを批判することは同じか?
これも、同じだ、と言っていい場面はあると思う。常にそうであるかは微妙だろうが。
ま、"知らない"というのはやはり極端なので、類似する形式に置き変えてみると、
まず村上を知っていて、その上で、ある一部分をそれ以外とは無関係に取り出し得るとするか、それ以外と切り離すことはできないとするか、ということになる。("知らない"は前者と同じとみなせる)
上述の通り、場面によると思う。ではどんな場面?
普通に考えれば、具体的な行為/発言を批判する時は、当然切り離しうるだろう。オマエじゃなくてオマエの行動が悪いんだよゴルァ、である。
では切り離し得ない場面とは? 少なくとも公的/社会的な言論の場面では無いと思う。プライベートじゃ別だろうが。(その意味で、作家とファンの関係はプライベートなものと言っていいかもしれない)
あれ? 問題ないじゃん。
だが私のこだわっているのは、村上春樹の何が批判されたか、ということだ。
村上の具体的な行動/発言は、村上のそれ以外の部分とは別個に批判され得るが、では批判されている村上の行動/発言とは具体的に何か?
例えばmojimoji氏の端緒となったエントリで具体的に村上の何が批判されているのか?
おそらくエルサレム賞を拒否しなかったことだろう。それは問題ない。彼の見識である。
私が問題だと感じるのは、村上のエルサレムでの態度/スピーチにまで言及していることだ。ソンダグのスピーチを引っ張り出しておいてその意図が無いとはいえない。
そしてそこにおいて、ただ"村上春樹"の名が単なる印象に基づいて揶揄されているように見える。
「単なる印象」というのは、彼には"村上春樹"という作家にある一定の傾向/行動を予期する信頼にたる根拠が無いからだ。何しろ読んでいないのだから。そしてスピーチをするのは村上の一部分ではない。
彼は、村上の具体的な行動を批判し、同時に村上の未だやっていないことをも揶揄している。
両者をひっくるめて単に村上の一部分を批判しているに過ぎないと言うなら、それは違うと言わざるを得ない。村上が未だやってないことを予期するに足る情報は彼に無いし*1、何より未だやっていないことを語るということは、つまり"村上春樹"について語るということ以外ではないからだ。
今が2009年10月くらいで、「そういえば春先に村上がこんなスピーチをしたな。オレは村上は読んでないけどありゃダメだろ常識的に考えて」と言うのはアリだろう。
だが2009年1月に、村上のエルサレムでの未だなされぬスピーチに批判的に言及するということを「読んでもいない」人がするのはどうだろう? 偏見以外の何かになりうるだろうか?*2
mojimoji氏は村上春樹がどう行動するかは完全に彼の自由だと言っている*3。それは当然であるが、しかしこの件に関してそれには何の意味も無い。どのような誹謗・中傷を行う者も同じことを言える。
村上が自由であることは、村上を誹謗することを免責するわけではない。両者の間にはなんの関係も無い。村上の自由とは無関係に、発言者には発言者固有の自由と責任があるだろう。
では"村上春樹"について語ってしまっているmojimoji氏が果たすべき責任とは?
私の考える、mojimoji氏の取った批判の方法の問題は結局ここだ。
村上が完全に自由であること(彼は最初からそう考えていただろう)こそが、むしろ彼にとって"村上春樹"を無責任に名指し、批判することを可能にしているかのように見える。村上の自由を理由に自分の批判を相対化しようとするエントリはその証明のようだ。
村上が自由であるという事実が、彼(批判者)にもまた自分の果たすべき責任があるのだ、ということを見ずに済まさせていると言ってもいい。村上の自由(無論これは日本=社会によるが)に過度に依存している、と言ってもいいだろう。
具体的にはそれは"村上春樹"という固有名 = 全体を名指す、ということの責任である。それが欠けているように見える。
この種の(他者依存的な)無責任を、先のエントリでは"春樹的なるもの"と呼んでいる。無論それは、無知=イノセンスに基づくありもしない中立を自認することと変わらない。

理解がないとこう明言しているからには、可能的な誤解もない、ということです

本当に文学的想像力があるならば - モジモジ君のブログ。みたいな。

実際、"春樹的なるもの"とは一般にそう通用している。
"春樹的なるもの"の危険性/問題点ははてなのブログでも探して。
蛇足だが、当エントリは村上を批判することを問題視しているのではない。本来切り離し得ないものを切り話して語り得るとする態度を批判している。

*1:「読んでもいない」ことを批判されるのはそのせいなわけだが。それを村上ファンの感情的な反発としか聞けないならかなり問題。なぜそんなことになるのか自問したほうがいい。

*2:なんかわかりにくいな。。。。
たとえば、信号無視をしている人を、彼について何も知らずに批判することは可能だろう。
一方、まだ?信号無視などしていない人を「もし信号無視しようと考えているなら、やめといたほうがいいね」と当人を指差しつつ語るなら、これは前者と社会的に同じ意味を持つ行為に過ぎないとは到底言えない。
例え「彼には好きに行動する自由があるし、そもそもオレの関心は彼じゃなく交通法規だし」と言ったところで同じだ

*3:これ自体は非常に良いエントリであると思う。